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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(七)」

 
今年は三月ごろから師走の今に至るまで「自尊心の肥大化とニヒリズム」について二十本のエッセーを書いた。
 
僕の考えが一年くらいで大きく変わる筈がなく、それらはどれもこれも同じことを
愚痴のように繰り返し書いているだけだとも思われるが、毎日々々考えては書き、書いては考え続けていると、
それまでには思いつきもしなかった発見と言うと大袈裟だが、新たなことが分かってきたり、
軽くしか思っていなかったことが深い意味を持って胸底に沁みて来たりするので、
それらを書いているうちにこのような数になってしまった。
 
 今日もまた、そうだ。つい先日、『承認を求める時代(五)』に書いたことをぼんやり考えていると、
「ああ、そういうことだったのだ」と、改めて自分の迂愚さに驚かされた。
 
(五)に書いたことはこんなことだった。
 
 僕が欝病や自傷や性の衝動などに苦しんでいる人が沢山いると話した時に、年若い友人にこう言われたと。
 
「そんなものは、男でも女でも、恋人を宛がって、セックスして、結婚でも決まれば、即座に解消するんですよ。
でも、それは飽くまでも相手が自分の求める条件にかなっていたらのことですけどね。
何しろプライドだけは高いのですから」
 
「本人は確かに死ぬほど苦しいのでしょうけど、でもそれは、ただプライドが高過ぎるから、
現実の自分が認められない輝かない、報われないと嘆いているだけのことで、
それは丁度五歳の子供が自分の欲求を叶えてもらえないと僻んで拗ねて、
可哀想な自分を憐れんでいるのと同じなのだと思えるのです。申し訳ないのですが。
 
ですから、彼らが苦しいのは否定はしませんけれど、
でも、ドストエフスキーや芥川や漱石の描いた絶望とは、次元が違うのではないかと思えるのです」
 
 僕は彼女のこの話で、僕の人を見る目が極めて甘いことと、彼女が言うのが本当の現実だと
認めざるを得なかった。

しかし、「次元が違う」ということについては、それが明らかな真実だと直観しつつも、
どこがどう違うのかを明快に分かることができなかった。
僕たちは前者にも後者にも共に、「苦しみ」という同じ言葉を使うのである。
僕はずっと晴れぬ靄の中でこのことを思い巡らしていた。
 
 すると昨晩、当の彼女とエッセーを巡ってメールのやり取りをしている時に、またしても
彼女からこのようなメッセージが来た。
 
「人間には自分を高めることで承認欲求を満たせるタイプと、何もしなくても回りに大事にされて
承認欲求を満たしたいタイプが居る。
後者はとても我儘で、こちらが手を差し伸べて力を尽くしたとしても、それこそ自分が
満足できる相手でないと満たされないのです」と。
 
 誠に、驚きだった。「ああ、そうだったのだ」と、気づいた。
彼女の説は問題の本質を深く貫いていた。靄が晴れた。
 
 後者が、「淋しいつらい苦しい」と訴えて他者も自分も憎み呪って暗く凍りついた虚無の部屋に蹲って、
そこを出ようとしないのは、その故なのだ。

彼らが素直に謙虚になることができずに、人に敬意を払えず、感謝もできず、許しを乞うことも
祈ることもできないのは、その故なのだ。

何ものにも心震わすことなく、己を知ることも、何も信じることができないのも、
すべては被害感と虚無の齎す苦しみに自己憐憫を感じているのと同時に、そのことに
被虐・マゾイストの喜びを感じているからなのだ。

自分を「精神の死」に置き苦しむことで彼らは報われない自尊心を満たそうとしているからなのだ。

彼らが認められないという自分の苦しみを誇るのは、その故なのだ。
 
 つまり、彼らはそもそも初めから理想も美しく尊いことも愛も、求めてなどはいなかったのだ。
畏れることも素直であることも謙虚であることも、そんな人格上の特質がどうしても必要だとは
求め願っていなかったのだ。

彼らは聖書も太宰もドストエフスキーの本も手に取ろうとはしないばかりか、「ふん」と嘲って、
目を遣ることもしない。彼らの望みは己を頂点に立たせたいというだけのことだったのだ。
理想や神の基準に自己を照らして、自分自身を日々乗り越えていかねばならないと求めていた訳ではないのだ。
 
 「苦しみ」という言葉は同じだが、その求めるところは全く逆に向かっていると言えるだろう。前者は理想と自己超克に、後者は世俗の自己実現・承認に。
 
 
 僕はしかしこの「自己実現と虚無」「肥大化した自尊心と絶望」という問題を考え始めた二十歳の頃から、
このことを知っていた筈だったし、このようなことを書いても来たのだった。
それを、今初めて気づいたように驚いているのは何故なのだろう。
 
 そう、これまで何度も何度も罵られて来た通り、僕はおめでたかったのだ。
甘かったのだ。浅薄な理想主義を掲げて、人の善良さを盲信して、
そして、人間の本当の現実を深く見抜くことができなかったのだ。
 
「美しく尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできないのだ」。
 
「苦悩だけが人格を形づくる」。
 
「人間には死と蘇りがあります」。

毎日々々思い出すこの三つの言葉は、僕がまだ二十代の頃、もう四十年も前に憶えた言葉である。
僕はずっとずっとそれらを信じたくて、人間の善良で高潔な魂を信じたくて、
何度も何度も何度も限りなく落胆させられ裏切られ踏みにじられながらも、人に話し、書いても来た。
 
 しかし、そう、僕は今日になって初めてそれらの言葉の本当に意味するところを得たのかもしれない。
 
「絶望と言い得るのは、ドストエフスキーほどに求めた者だけだ」。
 
 
 天を仰いで祈ること。それは僕の自己満足でしかないのだろうし、誰をも喜ばすことはないだろう。
しかし僕は現代という時代の子たる彼らの為に祈りたいと思うのだ。
涙をこめてそうすることしか、僕にはできないからだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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