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「届かなかった手紙(五)」

 
 赤ちゃんは何によって生きているのか?
 
 生まれてから二年くらい経つまでの赤ちゃんは自分の言葉で意志を示すことはできませんし、
自分で水や食べ物を摂ることもできず、体を温める衣服を纏うこともできず、
体を清潔に保つために風呂を沸かして体を洗うこともできません。
誰か自分以外の人によって保護され養われないと生きて行くことができません。

ですから赤ちゃんは自分の命を保つために保護してくれる人に向かって
泣いたり喚いたりむずがったりと、あらゆる手段を講じて自分の欲求を表します。

このことにあなたは疑問を差し挟みはしないでしょう。 

そこであなたにお訊きします。
赤ちゃんをしてこのように行動させるものとは何なのだと思われますか?
 
 赤ちゃんに息をさせ、おっぱいを吸わせ、排泄させ、眠らせ、泣かせ・・・と、
養育者に求め訴えさせるものは一体何なのでしょう? 

寒かったり暑かったり、眠かったりお腹がすいたり痛かったり・・・
そういう時に赤ちゃんを泣かせたりむづがらせたりして母親を呼び寄せて、
その苦痛を取り除かせたり欲求を満足させようと赤ちゃんを動かす力は何なのでしょう?

もし赤ちゃんがそのように行動しないのだとしたなら、
赤ちゃんが生きていけないのは自明のことです。

赤ちゃんがありとあらゆる手段を用いて訴えるのは
赤ちゃんが生きたいと望んでいるからではないでしょうか? 

 赤ちゃんの必死の訴え、それを生み出しているのは赤ちゃんをして、
赤ちゃんを生かそうとする力が働いているとは考えられませんか? 

赤ちゃんが明確な意識をもってそうしているのでないことは考えなくても分かります。

赤ちゃんは無意識のうちに自分自身の内なる意志によって促され、衝き動かされているのです。
赤ちゃんを生きさせようとする意志が赤ちゃんを動かしているのです。

もし、赤ちゃんがたんぱく質で造られた肉体だけの存在であるとするなら、
それは生命体でも人間でもない、ただの人形でしかありません。
赤ちゃんが赤ちゃんであるのは、物質的な肉体と共に意志(精神)が備えられている故なのです。

 そう、赤ちゃんを生かしているもの、それは赤ちゃんのうちにある、
「赤ちゃんを生きさせようとする無意識の力」、
つまり、「生命の意志」だと言えないでしょうか? 

人間は(生命体は)、自分は自分であるという意識を持つ前から、生命体として生まれたその瞬間から、
「生きよ」「自分の命を保て」という意志によって促されて行動しているのです。
これは僕たち生命体にとって最も根源にある決して否定することのできない真実なのだと思います。
 
 ですから僕たちは死にたいと望む赤ちゃんや自分を否定して傷つける赤ちゃんや
命を危険や困難に自ら晒す赤ちゃんを見ることも想像することさえできはしません。
自分を憎んだり呪ったり傷つけたりする赤ちゃんを見たことのある人は
ただの一人もいないでしょう。
 
 「生きよ」「自分の命を保て」という、『自己保存本能』と呼ばれる意志が人間ばかりでなく、
この世のすべての生命体を生かしていることは誰も否定することができないでしょう。
もちろんあなたもその例外ではありません。
 
 
② 人は誰一人の例外なく、生きたいのです。自分自身の命を永遠に保ちたいのです。
 
 
 あなたも僕も、すべての人間はこの揺るがすことのできない自分自身の真実を
素直に謙虚に認めなければならないと、僕は思うのです。あなたに願うのです。

たとえどのように悲惨な過去があろうとも、どのような状況に置かれているのだとしても、
どんな理由があろうとも、この決して否定することのできない真実の前に
「素直に」頭を下げねばならないのです。

つまり僕たちは「生きて、自分自身を大切にしたい」のです。
これは何度繰り返しても繰り返し足りない真実です。

僕たちが従うべき最も重要な真実なのです。
 
 もしあなたがそれでもこの真実を認めることができない、信じられない、
私は違う、私は醜い、穢れている、私は生きたくなんかない、
私は死ぬべきなのだとおっしゃるなら、僕は、諦めます。

もう二度と、あなたに思いを向けることを諦めます。
そこまでもひねくれ捻曲がって頑なに心を閉ざすなら、僕はもう、諦めます。
あなたについて求めることも願うことも諦めます。

先程も言いました。
もし、そうであるなら、今すぐにお読みになることを止めて、
僕を憎み呪って、この手紙を燃やして下さい。

あなたは悪魔の囁きに欺かれて、
自分の誇り以外には何ものをも見ることができなくなっているのですし、
苦しむ自分は可哀想だと涙を流して被虐の陶酔に浸ることを
自ら選びとって満足しているのですから。

ですから今すぐに僕のこの手紙を破って、今のあなたのままで居て下さい。
どのように生きるのか、どのような人間になりたいのか、
それはあなたが選ぶことなのですから。
僕を拒み無視して下さっても、結構です。あなたが望むようにして下さい。
 
 
 さて、まだ読んで下さっていますね。

では、僕たち人間は「生きたい」と願い求める「生命の意志」に促され衝き動かされて生きていて、
そしてその命は自分がどうありたいのかを選択する自由の只中に置かれている、
この真実を礎として考えて行きましょう。
 
 僕は何度でも言います。

あなたの過去にどのようなことがあったのだとしても、
今どのような状況に置かれているのだとしても、
この真実を否定することはできないのです。

あなたは生きたいと望んでいる。

あなたは自分を大切にしたいと願い求めている。
そしてどういう人間になりたいのかを選択できる自由のうちにある。
このことをしっかりと憶えておいて下さい。
 
 
 赤ちゃんは泣いたり叫んだりして自らの命を保つ
基本的な欲求を満たそうと訴えるだけでなく、笑います。喜びます。
抱かれたり撫でられたり、自分の欲求が満たされると、喜んで笑います。

それは、自分が認められ、求められ愛されていると感じるからではないでしょうか?
こじつけとも大袈裟とも思われるかも知れませんが、
この頬笑み、喜びは赤ちゃんの心の最も深いところにある「生命の意志」が求める
「生きたい」という目的が達成されて、
自分の存在に意味があると感じているからこそ生み出されたとは言えないでしょうか?

自分は最も望ましく生きていると感じているからではないでしょうか。
望みが母親たち養育者に受け入れられ、また自分が求められ、愛され、
そしてまた、こちらから母親たちを愛しているということを感じて、
自分の存在に意味を感じているのではないでしょうか? 

「喜び」は、生命の意志の目的が満たされた時に与えられる「しるし」なのです。
ですから反対に、悲しみや苦しみは生命の意志の目的が損なわれた時に現れる
「しるし」だと言えるでしょう。
 
 このような繰り返しを経て、赤ちゃんは少しづつ身体を大きくし、言葉を憶え、
這うようになり、歩き、そして生き抜くための様々な行動の仕方を身につけて行きます。

一日々々と成長して、意識と行動の範囲を拡張して、更に走るようになり、
よりうまく表現ができるようになって行きます。
人に自分の思いを話し、人の話を理解し、相手の心を読み、
また自分の思いを言葉や絵や音楽などによって表現するようになります。

両親をはじめ身近な人たちと心をひとつにしたいと求めていると言えるでしょう。

それは「成長」と僕たちが言っていることであり、「愛」と呼んでいることです。
僕たち生命体はこのあるべき完全なる姿へと進んで行くことを願い求めているのです。
 
「成長」。

これは何を意味するのでしょう? 

もし、生きること、つまり「自己保存の本能」を満たすためだけなら、
生きている赤ちゃんは赤ちゃんのままで留まっていても良い筈です。

ちょうどアメーバーがアメーバ―として完全に十全に生きているように、
養育者の援助を受けているとはいえ、その状態でも十分に生きていて
喜びに満たされているのですから、わざわざ困難や危険を冒して努力までして、
二本の不安定な足で立って、広い行動範囲を得ようとしたり表現しようとしたり、
身近な人たちと心を一緒にしたいなどと求める必要はない筈なのです。

僕たち人間を生かしているのが「自己保存の本能」だけなのだとしたら、
それは生きていることだけで十分達成されているのです。

だのに何故、人間は危険を冒し、困難を乗り越える努力をしてまで前に進もうとするのでしょう?
 
 そう、僕たち生命体のすべてを生きさせている「生命の意志」は、生命体をして、

『より高く、より広く、より深く、より豊かに生きよ』

と促しているのです。つまり

「今以上の存在になれ、成長せよ」

と、僕たちを衝き動かしているのです。
今現在の自分を乗り超えて更に完全な姿へと向上するように
僕たちを前へと衝き動かしているのです。

そして、その意志を一段階達成する度に、「喜び」を与えてくれるのではないでしょうか? 

楽しみでも快感でもなく悦楽でもなく、「喜び」です。
楽しみや快感は自己保存の本能の達成のために備えられていますが、
「喜び」は、向上、創造、愛によってもたらされるものだと僕は考えています。
 
 
③ 「より高く、より広く、より深く豊かに生きよ」と促す
『生命の意志』が全ての生命体を貫き、前へ前へと衝き動かしていることは、
疑うことのできない真実でしょう。

僕たちの「存在の目的」はそこにこそあるのですし、
それを達成しようとすることに僕たちの「存在の意味」があるのでしょう。
 
  
 これまでに書いて来た三点、このことをしっかりと分かって、素直にそれに従うなら、
僕たちは今の僕たちの悲しみや虚しさや苦しみを乗り越えることができて、
すべての問題は解決したも同然なのです。

僕たちの存在の根源にあるこの「生命の意志」に衝き動かされて僕たちは生きているのですから、
自分自身の心の奥底にあるその意志を素直に認めて従いさえすれば、
僕たちは自分自身を大切にして、ひとを愛し、喜びと感謝のうちにいきいきと生きていける筈なのです。

他者も自分自身をも憎み呪うことも、自分自身を裁き否定して、虚無の苦しみのうちに
自分を傷つけて閉じ籠り続ける必要はなくなる筈なのです。
僕たちの存在は本来、意味と光に充ちているのです。
 
 僕たちがまったき素直さを持って深く深く自分自身の心の奥底を見つめて考え尽すなら、
このことに気づく筈なのです。
そして意味に満たされ、感謝と喜びに包まれて十全に生きていける筈なのです。

あなたが死ぬほどの思いで渇望して来たあなたの存在の目的と意味とは、
ここにこそあるのです。

素直に謙虚に、この事実の前に頭を下げて下さい。

            (つづく)

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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