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「届かなかった手紙(六)」

 しかし、僕が何度、

「僕たちたち生命を持つものはすべて、
生きんとする意志、更に高みに至ろうとする意志、
自分自身を大切に愛して、そしてそうするように他者に敬意を払い愛して
ひとつになりたいという意志に促されているのだ」

と、繰り返してみても、あなたは中々信じてはくれないでしょう。

「愛なんて、そんなおめでたいことを」

と、皮肉たっぷりに嘲って、耳を貸そうとはしないでしょう。

そうです。僕たちの眼は曇らされて、心を頑なに閉ざしているからです。
僕たちの心は「肥大化した自尊心」によって、
被害者たる自分自身の不幸以外には何も見えなくなってしまっているからです。
 
 ですが、素直に謙虚に考えるなら、見える筈なのです。
僕たちが生命の意志に突き動かされて、今の自分自身を乗り越えて、
更に高くへと促されているという事実は、小学校に入学する前の子供を観察するか、
或いはあなた自身の子供時代を思い出しさえすれば、明らかに見えて来るのです。
 
 言葉を憶えること、字を憶えること、這って歩いて、そしてより早く走ろうとしたこと、
自転車に乗ること・・・子供の毎日は日々向上、進歩です。

子供にとってそうして行くことには大きな困難や苦しさや
危険が目の前に立ち塞がりますが、子供は今の自分を乗り越えて、
より高い自分になることを求めて努力します。

自分をより進歩させようとする望みに忠実に従って努力します。
破れても破れても、また望んで努力します。

そして、ついには達成し、身を震わせる喜びに全身を包まれます。
 
 もちろん、自分の欲求が満たされなくて怒ったり悲しくなったり淋しくなって、
僻んだり拗ねたりすることもありますが、
しかし基本的には、自己の命を維持しようとする本能と共にある「生命の意志」に促されて、
自分自身を高めようと努力を重ねます。

ここには虚しさも無意味感も被害者意識も自己否定も抑圧もありません。
子供はまだ自意識が十分には目覚めておらず、
「自尊心」が完全には形成されていないからです。
他者と自分とを比べて評価するという自己認識が十分に目覚めていないからです。
 
 
 僕たちの問題が本格的に起こり始めるのは、
やはり幼稚園や小学校という「社会」の中に組み入れられた時からでしょう。
(兄弟が居ることも一種の社会ですので、家庭内とは言え、同様でしょう)。

母親と自他の区別なく一体となっていて、自らを疑うことなく安らいでいた世界を出て、
他者との相対的な関係の中に自分自身の価値と意味を求め始めるからです。
 
 
 前に書いたとおり、「生命の意志」は、
自分自身の命を保って永遠に自分を生かそうとして「自己保存の本能」を備えました。

微生物から人間に至るまですべての生命体はこの意志に貫かれています。

そしてそれは更に、「より高くより広くより深く豊かに生きよ」と、
今の自分を乗り越えて行くことを生命体に促します。

向上、成長です。

そして、この高次の次元をより効率的に十全に達成させるために人間にだけ
「自由」と「自尊心」が備えられました。
 
「自由」と「自尊心」がないと、生命体は今生きている自分に満足して留まり、
向上することを望まなくなってそこに安住してしまうからです。
低い自分を「善し」としてしまうからです。
 
 微生物、植物、昆虫、動物も人間と同じように向上することを実現しようとして、
また実現もしていますが、それら生物の意識は
本能という不自由さに閉じ込められていますので、
その促しは適応という形を得て、そこで止まってしまいます。

人間以外の生命体は自己保存の本能に縛られているので、
まったき自由の中で自分自身をより向上させようという選択の余地を持たないからです。
 
 ですから、適応という地平にあって生命の意志は眠りこけて無意識になってしまいます。
人間以外の生命体は自然の法則のままに機械のように、
「本能」によって、殆ど決定されているプログラムのとおりの命を生きるだけなのです。

自由意志、つまり自分の人生を自分で選択することができない、
「本能」に固定され縛り付けられているからです。
 
 しかし人間は自由のうちに置かれています。
より高くより広くより深く生きること、今の自分を乗り越えて生きること。
「生命の意志」はその目的を達成させるために人間に選択の自由・自由意志を与え、
そしてそれが十全に働くために『自尊心』を備えました。
 
 
④つまり、僕たちの存在の根源にある「生命の意志」は、
 自分自身を正しく愛して、今現在の自分自身を果てしなく乗り越えて、
 より高い自分になるという目的を実現するために自尊心を備えて、
 愛と喜びに至りなさいと僕たちを促しているのです。
 
 
 自尊心がないなら、僕たちは高みに至ることを求めず、
低きにあることに安住して留まり、意識を眠らせてしまいます。

「向上心のない奴は馬鹿だ」と、漱石の『こころ』が語る意味はそこにあるのでしょう。
「あなたは真面目ですか」と、問う意味も、そこにあるのでしょう。

「自尊心」、

それは本来自らを誇り驕り昂ぶるためにあるのではなく、
より高く人を生きさせるために備えられたものなのです。
 
 
 ですからあなたが

「私には何の価値も意味もない」。

「誰も認めてくれない、求めてくれない、愛してくれない、分かってくれない」

と嘆き苦しみ、

「すべては虚しい」

と、自分を傷つけ呪って来られたことは、
実は、あなたの魂が真の「生命の意志」に強く強く促されているということを
証明してくれているのです。

より高く、意味深く生きよと促す「生命の意志」に忠実に生きようと
切実に願い求めた故に、これまで虚無に苦しめられ続けて来たのです。

「自分は許されない、醜悪な存在だ」

と自分を裁き否定し呪って自分自身を傷つけて来たのは、
より高く生きたいと自分自身に強いて来たのに、
それが果たせなかったと思うからなのです。
ですから、
 
 
⑤高くあることを求め願って来た自分
 自身を認めてあげることが、何より重要な一歩なのです。
 「高くありたい」と、必死に求めて来た自分をそのまま認めることが
 何より大切な一歩なのです。
 
 
 何度も言いますが、身を焼く苦しみとは、
高くあることを強く求めている故に齎されたものなのですから。

人生が生き辛く苦しいということは、
それだけ自分自身に求めて来たということを証明しているのです。

精神科医は脳内の化学物質の伝達が悪いからだとか
トラウマだとか疲労だとか言って薬を処方するでしょう。
確かにそれで治る人も多いのでしょう。

しかし僕たちは物質だけで創られた精密な機械なのではなくて、
精神を持った人格なのです。
自分の存在と人生に意味を求める人間なのです。
すべての神経症にそのことが関係しているとは言いませんが、
しかし、「存在の意味」「人生の意味」が僕たちの精神にとって最も重要であることは
誰も否定できないでしょう。

「苦悩」は病気なのではなくて、人間が人間になるためにどうしても必要な経験なのです。
この絶望を経て、人は初めて人になるのだと思います。
 
 
⑥「存在の無意味さ」「虚無感」が僕たちを苛み苦しめていることは確かだと思われます。
 僕たちは、何があったとしても、何があっても、これを乗り越えて行かなければなりません。

 何故なら自分自身を乗り越えて高みに至ろうとすることは、
 僕たちを根源的に衝き動かしている「生命の意志」であり、
 そして僕たちは、本当は、「生きたい」と望み、「存在の意味」が必要だと求め、
 「自分自身を愛したい」と願っているからです。

 認められ求められ愛されたいと熱望しているからです。
 「分かってほしい」と願い、「愛したい」と求めているからです。

 このことを冷静にきちんと認めなくてはならないのです。
 素直に謙虚に認めなくてはならないのです。
 
 
 しかし、あなたは言うでしょう。

「私はお前が言うように、そのように願い求めて来たというのに、
何故こんなに傷つけられ踏みにじられて、
虚無の嵐に襲われて苦しめられて来なければならなかったのか?」

と。
 
 本当に、そうなのです。あなたは望んで来た。
自分の命を懸けて純粋に望んで、ひとに怯え、
言いたいことも言えずに自分を抑えて尽くしサーヴィスし、努力もして来ました。
本当の自分を押し殺して、他人の都合のよいように愛想よく振舞って来ました。

しかし、報われなかった。

ひとはあなたの誠実も願いも裏切って踏みにじって、
心の奥底までも傷つけるだけだった。

夢も願いも希求も理想も信頼も、あなたのすべての思いは砕かれ、否定されて来た。
誰も本当のあなたを分かってはくれなかった。
 
 そこであなたは、何も信じられなくなりました。
美しいことも尊いことも愛も何もありはしないのだ、
私には何の価値も意味もないのだと自分自身を裁いて否定して呪って、
自分を傷つけ死を思って涙に暮れて来たのでしょう。
 
 
⑦望んだことが叶わないから、苦しいのです。
 願い求めて尽くした努力が報われないから、虚しいのです。 
 自分の存在に何の価値も意味もないとしか思われないから、苦しいのです。
 誰にも認められないから、その愛を信じることができないから苦しいのです。
 
 屈辱と被害者意識が虚無を産み、その惨めさが僕たちを苦しめるのです。
 あなたの自尊心はそのような惨めな自分を守ろうとして、
 傷つき破れた自分自身のうちに閉じこもります。
 可哀想な自分を更に痛めつけ、その苦しみのうちに自分の存在の意味を見出そうとします。
 
 
 しかしそれは決してあなたに本当の意味での「存在の意味」を齎してはくれないでしょう。
「存在の無意味感・虚しさ」を乗り越えさせ、
大いなる喜びと感謝にはあなたを導いてはくれないでしょう。 
 
 そう、何故私はより高くに至ることを誰よりも求めて来たというのに
こんなにも惨めな思いのうちに苦しみ続けて来なければならなかったのか?

何故?

そこに進んで行きましょう。
              (つづく)

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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