「届かなかった手紙(九)」
さて、何度も書いて来たことですが、あなたも僕も、ただ一人の例外なく人間も動物も
昆虫も植物も、この世の命あるものはすべて「生命の意志」に衝き動かされて生きています。
その意志は僕たちに「生きよ」と命じ、更には「より高きに至れ」と促しています。
この意志の促しによって僕たちは今の自分を果てしなく超えて行こうとするのだし、
そしてその目的の実現のために自尊心が備えられているのだと書いて来ました。
その故に僕たちは他者との関係の中でより高きに至ろうとして自己実現を企てるのだと。
ところがその僕たちが求める自己実現の基準は相対的な社会的な価値であって、
またその価値を手に入れること、即ち他者に承認されることだけが
自分の存在に意味を齎してくれるのだと信じて努力を重ねても、
結局は自己実現の企てはすべて打ち壊されて叶わないのだと書きました。
その結果、僕たちは虚無に囚われてしまうのだと。
このことからどのような結論が導き出されるのか。
つまりこの世の価値を他者よりも多く手に入れて承認されることが自分の存在に
意味と幸福を齎してくれると信じて疑わないことこそが問題の根源なのだと思えるのです。
冷静になって改めて考えてみて下さい。
僕たち人間は人に認められるかどうか、
人より優れているかどうかというような世の価値基準によって計られるものなのでしょうか?
僕たちの人間性はそのような価値によって決定されるべきものなのでしょうか?
それが僕たちの存在の意味や無意味を決めるのでしょうか?
僕たちは何より、『人格』的存在なのではないでしょうか?
そもそも社会的な価値の基準によって図られるべきものではないのではないでしょうか?
美人、学業優秀、スポーツ優秀、藝術優秀、お金、地位、名誉、有名性・・・
そのようなものが僕たちの存在の意味なのでしょうか?
前にも書きましたが、「認められること」は本当にとてもとても重要です。
しかしそれは単に相対的な社会的価値基準でしかないのです。
思い出してみて下さい。「人徳」という言葉を覚えたでしょう?
「偉い人、立派な人」という表現もありました。
「情け深いひと」「同情心の厚いひと」「素直で謙遜なひと」「高潔な人」「慈悲深いひと」
「尊敬すべき人」、「畏れを知る人」、「志高い人」、そして「愛ある人」。
そのような人のことを僕たちは立派だと尊敬し、
そのような人間になりたいと願っていたのではなかったでしょうか?
誰かに認められることも求めてはきましたが、
しかし僕たち「このような人間になりたい」と願い求めて来たのではないでしょうか?
⑬ 人間として高くあること、立派であること。
今現在の自分自身を乗り越えて人間性を養い培って、人格を形成すること、
それこそが僕たち人間存在の本当の意味なのだという価値の基準がある筈なのです。
己に充ちたこの世での自己実現でなく、本来の人間としての自己実現の道がある筈なのです。
「生命の意志」が僕たちを衝き動かしているのは実はこの次元における「より高き」なのだと思うのです。
このようなことを言うと、人々は必ず嘲笑います。
おめでたい、馬鹿だ、お前は軽薄な理想主義者だから、
人間は本当は自分だけが可愛いのだということを知らないのだと罵ります。
この世には美しいことも尊いことも何もありはしないのだ。
地位と名誉とお金と有名性と性、それを手に入れることだけが幸せなのだよと唾を吐きます。
そうできないものは負け犬と言うのだよと、ニヒルに唾を吐きかけます。
確かに、神様を信じることのできない僕にも、恐らくあなたにも、
この罵る声が真実のように聞こえます。
ただひたすら世の価値だけを信じて来た親たちにも世の殆どの人々にも、
この声が真実のように聞こえるでしょう。
「愛? それは大切なのだろうけど、お金がないと人は生きていけないのだ。
認められないと、人は生きてはいけないんだ。
愛なんかで人は生きることが出来ないんだよ。現実は甘くはないんだ」
「何とおめでたい阿呆だ」
という声が人々の耳を覆って、その他のことは何も聞こえはしないのでしょう。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
人間は本当に世の価値基準に拠って自己を実現すること、つまり承認されることのみで
生きて行くことができる存在なのでしょうか?
承認されることが本当に僕たちの存在と人生に意味を与えてくれるのでしょうか?
もし、そうなのだとしたなら、あなたは何故こんなにも無意味感に
苦しんで来なくてはならなかったのでしょう?
何故淋しさと悲しさと虚しさに襲われて、苦しんで来なければならなかったのでしょう?
ドストエフスキーの言葉にこういうものがあります。
「美しく尊いもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできないのだ」
まさしく、この言葉こそが僕たち人間にとっての深い真実を語っているのだと僕には思えます。
あなたが命を懸けて求め続けて来たものとは、
実は、この「美しく尊いもの」即ち「愛」なのです。
あなたはあなたの心の奥底にある「生命の意志」に促されて、
「愛」を求めて限界を尽くして来たのです。
あなたは自分を促す生命の意志に忠実に従って愛を求め願って来たのです。
「聖書」に愛の定義があります。
聖書とか神とかと聞くと、誰もが丸で汚いものでも手渡されたかのように厭がって、
吐き捨てようとしますが、それは現代のニヒリズムに僕たちが骨の髄まで蝕まれてひねくれ
捻曲がっていることを証明していると言えるでしょう。
素直になって読んでみて下さい。そんなことは分かっているなどと言わずに。
⑭ 愛は辛抱強く、また親切です。
愛は妬まず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、
刺激されてもいら立ちません。
傷つけられてもそれを根に持たず、不義を喜ばないで真実なことと共に歓びます。
愛はすべてのことに耐え、すべてのことを信じ、すべてのことを希望し、すべてのことを忍耐します。
愛は決して絶えません。
あなたが求め続けて来たこと、それはこの愛を信じ、この愛が実現されることではなかったのでしょうか。
あなたがご自分に求め願って来たことは、
他者より優れた自分になって人々に認められることではなくて、愛だったのではないでしょうか?
ご両親にも恋人にも友人にも同僚にも上司にも求めて来たのはこのことではなかったのでしょうか。
本当の私を分かってほしい、愛してほしいと切実に求めて来たのはこのことではなかったのでしょうか?
いい子になって、人より優れた自分になって、世に承認されるものとなりたいと
願い求めて来たことの内に潜んでいたのは、自分自身を正しく愛して、
そしてそうするように人を愛したいという思いではなかったのでしょうか?
僕たちの現実にあっては最早、愛を身につけようと自分を果てしなく乗り越える努力を
どんなに積んでみても、また、自分を高みに至らせようと日々激しく強く努めてみても、
人々から優れている素晴らしいと認められて称賛されることはないでしょう。
世の人々にとってそれは虚しいだけのアホなことでしかないでしょう。
しかしそれだけが、人間として生まれて来た僕たちにとって最も大切な目的と
存在の意味なのではないのでしょうか?
あなたは、
「お前の言うことは分かるが、そんなことはできはしない。
私は最早何ものをも信じることができないし、何ものをも求めることができない。
夢も理想も望みも何もない。なりたい自分なんか、どこにもありはしない。
何の価値も意味もない私は死ぬべきなのだ」
と、言うでしょう。それも分かるつもりです。
でも、でも、考えてみて下さい。何も信じず何も求めず何も願っていないのなら、
何故あなたはそんなにも淋しくて悲しくて虚しくて苦しいのですか?
何故そんなに自分自身を憎んで呪っているのですか?
悲しく虚しく苦しいということは、「そこから逃れなさい」という「生命の意志」からの警告なのです。
素直に謙虚に自分自身を認めて、美しく尊いものを求めなさいという警告なのです。
それによって生きる時に人は感謝と喜びに満たされて本当に生きることができるのだという促しなのです。
(つづく)