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「昨今」

 寄る歳波の所為でもあるのだろうが、
もうあまりものごとを知りたいとも
新しいことに通じていないことを恥とも思わなくなった。
 
 画期的なAIのこともスマートタウンのことも、
アプリというようなことも。
もうそんなことはどうでも好い。  
 
 世はより便利でより快適で豊かな文明社会を築こうとしてか、
それとも金儲けや野心のためか人類に対する善良な愛のためか、
それは分からないが、
飽くなき進歩発展への欲求や欲望や願いを込めて邁進していて、
それによって救われている心や命もあることは確かなのだろうが、
しかしそのようなことはもう僕の心を惹きつけない。
 
 何故なら、「便利で豊かで快適な生活」は
僕たちの人生の本質とは全く何の関係もないと思われるからだ。

これは当たり前のことだが、
夢のような便利さや快適さに充ちた境遇が
僕たちを幸福する訳ではないのだ。

人はパンのみによって生きるのではないからだ。
 
 
 世のことが何も僕を惹きつけなくなった。

ニュースで知る最新の世界の出来事も一応は頭に入れるし、
それを知って胸を押し潰されそうになったり嘆いたり憤ったりもするが、
常に思うのは、人間というものは何と愚かで軽薄であるかということである。

ゴッホは、

「人間の悲惨さは永遠に続く」

と言い残して死んで行ったが、それから百数十年が経っても、
その現実は何も変わらない。

人は原初以来何も変わらず愚かで軽薄なままで、
そして世は悲惨さに覆われている。
 
 僕は悲観的な虚無感に溺れているのではない。
僕たちの精神の現実を思っているのだ。

来る日も来る日も夜を徹して読んで来た書物。

心に嵐を起こし奮い立たせ絶望し、
また義務と責任と希望を抱かせてくれた
文学や心理学や社会学などの書物、
もうそれらも僕を惹きつけなくなってしまった。

頭が沸騰するほどに興奮し、
心が押しつぶされるほど嘆き、
また全身全霊を込めて熱く求めたこと・・・

それらのことがもう僕の心を捉えなくなった。
 
 太宰もドストエフスキーもベルグソンもリースマンもフランクルもゴッホも、
それらが僕の精神をこれまで養ってくれたことに変わりはなく、
それらの偉人に今も最大の尊敬と畏怖の念を抱いていることは変わらないが、
「もう、いいか」と思う。
 
 そしてまた、十八歳の時に掲げた

「世界と普遍に至らねばならぬ」

という僕が果たすべき人生の義務と責任も、
この現実の世で実現できはしなかったが、
それもまた「まあ、いいか」と思える。

四十数年間にわたって僕を苦しめ続けて来た

「近代的自我の呪詛」

という難問もまた、「まあ、いいか」と思える。

いつ眠ったかも分からないくらいに必死に願い求めて来た

「自己実現」

を僕はこれまでに果たすことができなかったし、
今後も果たすことはできないに違いないし、
分かってくれ、分かりたいと願い求めて来たことも、
叶いはしなかった。

望んだことのすべては潰えた。
 
 しかし、そうであっても、
そのことで僕の存在と人生が無意味だとは思わなくなった。
 
 激しく学んで、僕は世界と普遍の境地に至りたかったし、
認められたかったし求められたかったし、
分かってほしかったし輝きたかったし、
死ぬほど愛されたかったし、愛したかった。

つまり自分の存在と人生の意味を得たかった。

だが僕は若いころと変わらずに今も愚鈍で軽薄なままで、
何ものにもなれなかったし、人を生かすこともできなかった。

太宰ではないが、

「生まれて済みません」

と、これまで関わって下さったすべての方に
謝罪せねばならないと心底思っている。
 
 しかし、そのように言うこともまた傲慢なことなのだろう。
僕は許されて辛うじて生きている。
だから今、「もういいか」と思っている。

僕が生まれて来て、生きているという存在の意味、
足掻き苦しんで来た貧乏臭いだけの僕の人生の意味、
それは「自己実現」によって獲得されるものではないのだと思えるのだ。
 
 先日、

『感謝は、その置かれた環境・境遇に左右されるものではない』

という話を聞いた。
 
 頑なに己に拘らず、まったき素直さと謙遜さをもって、
そして善良に、僕に与えられた人生からの義務と責任をひとつひとつ
果たしていかねばならないのだと、毎晩思い考えている。

悪魔からの囁き、過剰な自尊心に欺かれてはならないのだと。

僕の祈りは叶えられるかどうか分かりはしないが、
祈ることしか僕には残されていないと、思う。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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