存在の承認と意味(二)
鬱病六十万人、
引きこもり百万人、
自殺者三万人、
そして果てしなく繰り返されるリストカット、
無差別殺人。
これが僕たちの悲惨な現実である。
彼らは言う。
「私の存在は無価値で無意味だ。
すべては虚しい。
私は死ぬべきなのだ」
と。
恐らく彼らは人生のどこかで深く傷ついたのだろう。
親に愛されなかったのか、
学校で拒まれ虐められたのか、
学業が優れなかったのか、
会社で認められなかったのか、
好きな人に拒まれたのか、
有名人になれなかったのか・・・
その原因は個々各々で、
一概に言うことはできる筈もないが、
彼らが「承認」を求めて、
それが実現されなかったことに
彼らの虚無感と自己否定の源があるとは言えるかも知れない。
僕たちの存在の最も深い所には、
ありとあらゆる生命体を貫く「生命の根源的意志」があって、
それは何よりもまず己の命を保てと命じ、
更にはより高くより広くより深く生きよと促している。
そして人間にはその意志を十全に果たす為に自尊心が備えられている。
間違ってはならない。
「自尊心」、
それは本来僕たちが十全により良く生きるために働くべきものなのだ。
世に己を誇るためではない。
ところが僕たちはその意志の実現を証明するための根拠を
世に置いてしまったのだ。
だから、自分はこうである筈だという自己像が認められない時や
望み求めたことが拒まれた時、
僕たちは傷ついて、
自分を否定して閉じ籠ってしまう。
自分を可哀想な被害者とすることで自尊心を保とうとするのだ。
彼らは望みが果たせなかった自分を憎み、
また望みを果たさせない他者を恨み、
何ものも信じようとはしない。
だが、素直に自分自身のうちを見詰めるなら、
事は極めて単純で明快なのである。
僕たちは自分の命(存在)を保ちたいのだし、
認められたいのだし愛されたいのだし、
より十全に生きたいのだ。
自分が大切なのだ。
ただ、そのことの証明を相対的な社会的価値基準に求める故に
傷つき躓いてしまうのである。
この世で自己実現を果たすことだけが自分の存在の証明なのだと求めて、
その望みが破られる時、
僕たちは自分には何の価値も意味もないと思わざるを得なくなるのである。
しかしその価値基準は飽くまでも相対的なものであり、
そこには真に美しいものも尊いものもないのである。
「人は何によって生きるか」
とトルストイは問い、ドストエフスキーは
「美しく尊いもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできないのだ」
と書いた。
己の存在の意味を何に照らすのか?
僕たちは真摯に自らの心の最も深いところに問わねばならない。