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僕の心を占める思い

 
僕の心をいつも占めているのは
傷ついて、心を閉ざして自分自身の内に閉じ籠っている人のことだ。
自分を理解しない他者を憎んだり軽蔑したりして、
そして自分自身をも否定して裁いている人のことだ。
自分の存在には何の価値も意味もないと
自分自身を切り刻んでいる人のことだ。
 
僕は毎日毎夜、その人のことを思い考えている。
「もう、そんなに考えなくても好いのではないか」
と思う時もあるし、また、
「もう考えずにおこう」と、
決意したりもするのだが、
しかし何故だか、
胸の底からまるで水が沁み上がって来るように
その思いは僕の胸を覆って来て、
拭うことができないでいる。
 
同情心なのか、怒りなのか、無力感なのか、屈辱なのか、執着なのか、
それとも愛なのか?
僕はそれを判別することもできないでいるが、
その思いが昼も夜も止むことなく僕の心を重く覆っていることは確かである。
自分自身を切り刻んでいる人、
心を閉ざして頑なに閉じ籠っている人。
何ものをも信じることができなくなってしまった人。
その人を思って僕は、底知れぬ悲しみに覆われている。
 
桜やこぶしや山法師や、
春の喜びを告げる花を眺めても、
夏の万緑に圧倒されても、秋の実りに心和み、
晩秋の立ち枯れた蓮の池の前に立ち尽くしても、
僕の心を占めるのは、
心閉ざして虚無のうちに閉じ籠っている人のことだ。
 
そう、確かに、人生は侘しい。
それは寂しく悲しく惨めさと虚しさに満ちている。
望んだことは何一つとして叶わない。
絶望だけが人生だ。鬱陶しく苦しいだけの人生だ。
 
それは嘘偽りなき真実だろう。
しかし、僕は思うのだ。
それは揺るがすことのできない真実だろうけれども、
僕たちが心の底から求め願っていることは、
自分自身を愛することではないのだろうか?
自分自身を大切にして、
自らをより伸長させることではないだろうか?
僕たちはただ一人の例外なく、
自らを愛していて、
認められ、求められ、愛されたいのだ。
それはエゴイズムでも何でもなく、
命あるもの全てを突き動かしている
「生命の意志」なのだ。
 
自分自身の心の最も深いところに潜んでいるこの欲求を
分かってもらえぬものか。
頭を悪くせずに、まったき素直さと謙虚さをもって
自分自身の心の奥底を尋ね求めてくれぬものか。
「それでも人生にイエスと言う」。
V.E.フランクルの言葉を思う。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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