人生を嘆く(ニ)
「生まれてこない方が良かった」
「早くお迎えに来てほしい」
と嘆く老婆。齢九十も越えれば、目も足腰も悪くなって、
日々の生活に困難を覚えるだろうし、
その上に夫が早く死んで、子供達も都会に出て行ったまま帰って来ないとなれば、
淋しさも不安も募って、生きる甲斐もない、
死んだほうがマシだと思うようになるのは当然のことだろう。
それまでの人生にも多くの苦労や辛抱があったろうが、
それでも夫のため子供達のためと思えばその甲斐も感じることができたろうが、
もう誰もいなくなったがらんとした家に一人で暮らす日々は
淋しくて虚しいばかりだろう。
自分の幼少年時代の父母との温かな思い出や子どもたちが
小さかった頃に世話を焼いていた頃の思い出、
その記憶は少しばかり心を温めてくれるかも知れないが、
それは今日を生き、明日を望む力になる程には強くないだろう。
「一体私の人生に何の意味があると言うのか?虚しいだけ」。
老婆は思うだろう。
確かにこの老婆の嘆きは紛れもない人生の真実を物語っている。
苦労や辛抱が虚しさを生むのではない。たとえ大きな苦労があったとしても、
自分が夫や子どもたちの役に立っていると思えるなら、虚しくはならない。
その苦労と辛抱はむしろ自分の存在の価値や意味を強めてくれる。
自分は必要とされ、認められ求められていると思えるからだ。
それは社会的な名誉や地位やお金や有名性を獲得した人も同様だろうが、
信仰を持たない僕たちの自尊心の満足は偏に他者からの承認によって支えられている。
「認められ求められ愛されること」、それがなければ、
僕たちの存在と人生は虚しくて全く無意味なのだと、僕たちは思うのだ。
耐え難い淋しさや辛抱や苦しみと、
それを忍んででも生きることとを天秤にかけて測るなら、
もう死んだほうがマシだと思うのは当然のことだろう。老婆の嘆きは全く正しい。
だがしかし、正しいと言いつつも僕たちはそこに漠とした異和感を覚える。
それは間違っているという怒りに似た思いが頭を擡げて来る。
何故なら、淋しくて虚しくて、もう早く死にたいと切実に嘆いている老婆に、
「それでは今、死ぬか?」
と死神が問うとしたなら、老婆は、
「いや、もう少し待ってくれ」
と答えるに違いないからだ。老婆が
「早くお迎えに来て欲しい」
と訴えるのは、
今の淋しさや虚しさを終わりにしたいと思っているだけのことであって、
決して今すぐ死にたい訳ではないのだ。
老婆はむしろ自分を認めてくれること、
求めてくれて愛されることを願っているのであって、
それが叶えられないが故に、嘆いているのだ。
そう、僕たちの心の最も奥深くに潜んでいる「生命の意志」は、
如何に自分自身の人生を嘆いて否定したとしても、
生きることを望んでいるのだ。
その意志は、「よりイキイキと生きよ」と促しているのだ。
その意志はどんな価値も意味をも超越している。