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漱石『行人』を読む

二十代の頃、四畳半の下宿に閉じこもり窓のカーテンを閉ざして昼夜読み耽っていた漱石の『行人』を一昨日から読み返しはじめて、今晩読み終えた。

既存の価値基準、或いは神から切り離されることで自分の存在の根拠を何処にも見出し得なくなってしまった一郎と、聡明で冷淡な性格なのか、それともただ単に明治という時代性を具現化している女性なのかは分からないが、「スピリットを捉えずにはいられない」と苦悶し続ける夫の心情を理解することのできない妻「直」、またその兄夫婦に素朴な同情を寄せつつそのどちらにも身を一体化できないでいる二郎。そして世俗の価値観を疑うことなく生きる父と母と岡田。これら登場人物は夫々が夫々の願望を持ちつつ精一杯に目の前の相手に心を砕き、気遣い、何とか心を通わせた団欒を得んと望み求めるが、それらの願いや期待や思惑や、望んだことはすべて叶えられず、裏切られる。父は父の人生を生き、一郎は一郎の、母は母の、妻は妻の、そして二郎は二郎の人生を生きて、夫々が誠実に偽りなく相手を思い遣って生きようとするのだが、誰の思いも相手に通じはしない。登場人物たちは邪悪なのでも意地悪なのでも不誠実でさえないのだが、それらの心の赴く方向は全くばらばらで、夫々の思いと努力にも拘らず、分かり合うことができない。そして悲しいかな、夫々が夫々の思いの実現しないことを口惜しく、落胆の思いで噛みしめる。同じ屋根の下、同じ血の流れる親子兄弟たちが同じ宿命を担わされていても、彼らは誰一人として分かり合えないでいる。せめて一郎の神経衰弱の被害感が齎した妄想の実現として二郎と嫂との恋愛関係でも成就してくれれば、倫理的罪悪が生じるとしても、むしろ救われるのかもしれないが、物語はただただ、誰もが魂が軋むほどに願い求めるにも拘らず、分かり合うことがないという極めて惨めで残酷な現実を語るだけである。これが漱石の人間観察の結果であり、誠に残念なことに、僕たちが置かれた現実である。人間精神の限界とも言える望みや気遣いや善良さをもってしても、人間は分かり合うことができない。つまり、魂の安息は得られないと、漱石は言うのだ。「僕は何ものも所有することができず、何ものからも所有されない」。この一郎の切実なうめき声に象徴される漱石の描く現実は明治という時代性によるのでもなければ、近代的自我の陥らざるを得ない宿命や呪詛と言うような事柄ではあるまい。恐らく人間はその発祥以来、善良さや愛という切実な願いさえ分かってもらえないという、まったく遣り切れない悲しみを抱え続けてきたのだろうと、改めて考えさせられる。

「分かってもらえない」。

人間の悲しみは永遠に続くと、西洋ではゴッホが言い、ピストルで頭を砕いた。揺るがし難い現実。さて、そのようでしかない現実をどう生きるべきなのか。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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