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内省

人生は思うようにならないことに満ち溢れている。社会的な関わりにおいてであろうと、職場での人間関係であろうと、親密であるはずの家庭の中であろうと、願ったことは必ず砕かれる。望みは絶たれ、夢は破られ、企ては挫かれる。信頼は裏切られ、期待は逸らされる。そして、努力は報われず、忍耐は踏みにじられ、誇りは辱められる。分かってほしいと心が軋むほどに訴えてみても、理解者はどこにも居はしない。人生は過酷で、心は傷つき、憎しみに疼く。

しかし、人生とはこのようなものだと思っている人は稀である。

人は、精神を病んでいるというのでもないのに、僻んで拗ねている。憎み、妬み、嫌悪して、頑なに自分の殻の中に閉じこもったり、皮肉を言ったり、罵りの言葉をぶつけたり、怒鳴ったり、その行動は人によって様々だが、根にあるのは思いを満たされぬ被害者意識だ。自分を分かってくれない、傷つけられたと、怒りに胸を震わせている。自分は正しいのに、自分は悪くないのにと、傷口をいつまでも舐め続けている。傷はいつまでも塞がらない。ちくちくと痛む傷は陶酔だ。だから、人は自らを内省できない。僻み拗ねて泣き暮れ、或いは憎悪に胸を焦がし続けている自分がどれほど愚かで惨めな姿であるかを知ることがない。理解されること、認められること、愛されることを求めて、それが破られるとき、哀しく辛く、怒りが噴き上げてくる。人はそれらの情動に自分のすべてを覆われてしまうので、意識が心の内奥に向かうことはない。それらの情動が何故生じたのかを考えようとはしない。ましてや、自分を傷つけた他者の事情など思い浮かばない。

だが本当は、人は、踏まれ蹴られ傷つけられた自分自身を乗り越えようとすることもできるのだ。理解され認められ愛されることでなく、こちらから逆に、人を許し、理解し、認め、愛そうと意志する道もあるのだ。実際、そうすることは困難で、殆ど為し難いことではあるが、しかし、傷つき破れた自分自身を乗り越えて、こちらから愛そうと願うことはできるのだ。何故なら、僕たちは誰も、許されなければ生きていけない愚かな存在でしかないからである。

内省することのない自惚れ屋は己の姿に気づかない。自己憐憫に取り憑かれた拗ね者は内省ができない。自分が頂点にいるからだ。自分を超え出たものを持たない人間は決して自らを変えようとはしない。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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