トップページ > エッセイ > 「自分の死」に照らして

「自分の死」に照らして

  「今日のあなたの無為に過ごした一日は、
   『せめてあと一日だけでも生きていたい』と願いつつ
   昨日死んでしまった人の一日でもある」。


こんな怖ろしい言葉をこれまでに何度か聞いたことがある。

確かにそうだと胃に鈍い痛みを覚えたこともあり、
何と不条理な言いがかりをつけてくるのだと腹立たしくなったこともある。

  しかしそれにしても「自分の死」を切実に感じることは殆ど為し難い業だ。
それは日常の生活に於いてばかりではない。
親や友人などの身近で大切な者が息を引き取る場に向き合わされて、
胸が押し潰されるほどに嘆き悲しんだとしても、
僕たちは自分も今まさに死ぬのだとは思わない。
明日が来ることを微塵も疑ったりせずに、葬式の段取りに心を奪われる。

これ以上になく大切な人を失って、
生きる希望も意欲も生甲斐も最早何も残されてはいない、
僕が代わりに死んだ方が良いのだと嘘偽りなく思ったとしても、
それでも僕たちは明日の葬儀の手順を確認したり、
その後の生活をどうしていくのかと算段する。

もしそんな風でなくて、葬式などというそんな意味のない
馬鹿化た社会的な習わしなど糞食えだと思い、
この今の絶望は永遠に続くのだ、
この先には明るい希望など何もないのだと心の底から嘆くとしても、
明日の朝には確実に葬儀が行われることを疑いはしない。

今日とまったく変わらない一日が
また明日やって来ることを前提として思い考え、計画を立てる。

  僕たちは他者の死を意識することはできるが、
自分の死を切実に感じることも、また経験することもできないのだ。

「自分の死」、

それは如何に想像逞しく思い描いてみたとしても、
観念の域を出ることはできないもののようである。

それは腸捻転の痛みや失恋の苦しみのように
僕たちをキリキリと脅かすことがない。
耐え難い肉体の痛みや精神的な苦しさの切実さは
僕たちを病院や病気へと走らせるが、
「自分の死」は切実に胸を切り裂きはしないし、
僕たちをどこかに駆け込ませることもない。

他者は死ぬが、僕は死なないからだ。 
僕が、「もうこの先、そんなに長くはないのだから、
人間本来の生き方を見出さねばならない」
というようなことを考えるようになったのは
三十歳を過ぎた頃からのことだが、しかしそれはただ漠然と
人間は死ぬものだという観念を巡らせるだけのことで、
そのことによって僕の日々の生活が何か変わったかと言うと、
そう、何一つ変わったわけではない。

「彼は昔の彼ならず」。

もうすぐ死んでしまうのだから、
昨日までの自分を振り捨てて
新しい自分にならねばならないと呟き続けては来たが、
何の決断もできないまま三十年の時が過ぎて、
この正月に六十歳を迎えてしまった。

  まったく馬鹿げた言い方だが、
僕はもちろんいづれそんな歳になることを十分に承知していたのだ。
ところが、自分が本当に六十歳になるとも
本当に死ななければならなくなるとは思っていなかった
というのが本当のところなのだろう。

僕たちは死に対する漠然とした不安を覚えつつも、
日々の生活では今日のこの日が
未来永劫いつまでも続くことを疑わずに色々なことを企てたり、
望みや欲望を膨らませたりしている。

碌でもないと嘆きつつ仕事を処理し、
教えられた通りに旅行をし飲み会で馬鹿騒ぎをして、
実は虚しいと叫んでいる己の叫びに蓋をして暮らしている。

永遠に生きると思って日々を生きている。

僕ではない他人が年老い死んでいくことは明快に分かるのだが、
自分が同じ目に瀕することを切実に感じることはどうやらできないようである。 

  ここ三十年間というもの毎夜々々自分自身に向かって

「どんなに長生きをしたとしても、
 まともにものを考えたりできるのはあと十年ほどのものだ」と、

かなり強く意識的に自分自身を脅し焦っても来たが、
しかし「僕の死」を現実のものとした緊張が
迫って来たことはただの一度もなかった。

  だが、切実さはないものの、
「自分の死」に照らしてこれまでの来し方や
明日からの日々を改めて考え直してみると、
これまでには決して考えなかったことに思い至るのも確かなことである。
(もちろんこれは、人生を長いこと生きて来た故の僕の自己満足であり、
 負け犬の遠吠えに過ぎないのかも知れないが)、
これまで「それには価値がある」と信じてきた悉くのものが
実に何とも詰まらぬことだと思われて来るのである。

たとえば有名大学に入ること、一流会社に入ること、
金持ちと結婚すること、美型の恋人ができること、
愛人と暮らすこと、痩せること、社長になること、
隣より立派な家を建てること、BMWを所有すること、
市長になること、係長になること、五百万円貯めること、
趣味に励むこと、テレビに出ること、欧州旅行に出かけること、
一流ブランドのバッグを持つこと、絵画コンクールで大賞を取ること、
息子を有名大学に入れること、雑誌に取り上げられること・・・。

何でも良いし、これまでにそれを手に入れたかどうかも構わない。
問題は、僕たちがそれさえあれば幸せになれるのだと願い求めて
多大の時間と心血を注いで来たもの、
それらの悉くが、所詮は輝きを失くした
玩具のガラス玉に過ぎないと思えてくるということである。

どんな行いも業績も所有物も、地位も名誉も有名性も金も性も、
すべてはどうでも好い、虚しいものなのだ。

自分が死の間際の床に横たわっているとき、
そんなものが一体何になるのだと、腹立たしささえ覚えるくらいである。

そんなものを何故大切だと思って来たのか、
自分自身の軽薄さを呪いたくなるほどなのである。

  そして、そのような検証のあとに、
こんな感情が胸の底に残されていることに気づく。

つまり、

「僕はこの世で何者にもなることができなかった」

という無念と、

「僕の存在が死によってすべて消え去ってしまう」

という虚しさの二つである。

  しかしこの二つのうちの一つ、

「この世で何者かになる」こと。

それも他の輝いて見えていた諸価値と
何ら変わるものではないだろう。

もし僕が世に認められる何者かになっていたとしたなら、どうなのか。
ブラッド・ピッドとかイチローとか細野環境大臣とか。

いや、もちろん、そのようなものになれる筈もないが、
しかし、そう、これもまた同じように虚しいことだと思い至る。

  

  「自分の死」を眼前に置いて考えるとき、
僕たちには虚しさ以外、何も残されてはいないのだ。

これまで果たしてきたことも手に入れてきたものも、
或いは、心の底から求め努力したのに実現することができなくて、
僻み妬み憎み軽蔑する他なかった事々も、
すべては意味なく詰まらないものでしかないのである。

中也の詩ではないが、

「いったいお前は何をして来たのだ」

との声だけが胸に響き渡る。

  神仏の示してくれる来世や
この地上で永遠に生きるという信仰を持たない限り、
死がすべてを無に帰してしまうのは、
しかしはじめからの道理だろう。

信仰を離れた僕たちが追い求めて来た人生に
報いや意味が与えられるはずもないのだ。

  これまでの人生で為して来たことや
手に入れて来たものに意味を認めることができず、
また死後の生も信じることのできない僕たちの現実。

では、この草の一本さえ見出せない荒涼たる現実を前に
僕たちは一体どうしたら良いと言うのか。何を為すべきなのか・・・。

為すべきでないことは、分かっている。

地位も名誉も金も有名性も、
人々の賞賛も他人の顔色を窺って
気に入られようと心を軋ませることも、もう好いだろう。

僕たちは何ものにもなれず、
大したものを手に入れた訳でもないが、
もう十分に、やって来たのだし、
それらは所詮、自尊心や虚栄心を満足させんとする
社会的な欲求に過ぎないものなのだ。

だからこそ、「自分の死」に照らしたときに消え去ってしまったのだ。

  だから僕たちはそういう虚栄心の求める社会的な価値でなく、
本来的な自分が心から願い求めること、
それを生かすことにこそ残り少ない人生を用いなければならないのだ。

だがしかし、さて、一体それは何なのか。
何を為すことが世俗に形づくられた虚栄の欲望や価値ではない、
本来的自我の求めるところなのか?

どうすることが虚しさを乗り越えさせて
人生を意義あるものに転換してくれるのか? 

  しかし誠に困ったことに、
為すべきでないことは分かるが、為すべきことが分からない。

価値のないことは分かるが、真に価値あることは分からない。

何を思いついても、それらは所詮世俗の形作った欲望と価値、
詰まらぬガラス玉にしか思えない。

何ものも僕たちの人生に意味と報いを与えてくれるとは思えないのである。

これまでの人生と何も変わりはしない。

  誠に悲しく残念なことに、恐らく、自尊心と虚栄心が求める
世俗の価値ばかりでなく本来的自我が求めると思える価値もまた、
僕たちの人生に意味や報いを与えてくれはしないのだろう。

つまり自分の存在が消えてなくなる「死」を前にしたとき、
僕たちは虚しさの他には何一つ持たせてはもらえないということである。

  この世で何らかのことを為して地位や財を得て
自己実現を果たすことが幸福であり自らの人生に意味を与えるのだという、

僕たちのその企てそのものが誤っているのだと言わざるを得ないようである。
何を為そうと、何を得ようと、
「僕の死」の前にはすべて虚しく、意味がないのである。

この何ともし難い人生のまったき虚無こそが

「近代的自我の呪詛」

と言われる所以なのかも知れない。
朔太郎の書く芥川の言葉。

「著作や名声、そんなものが何になる」。

  だが僕たちは、こんな絶望的な結論に覆われたままで
現実の死を迎えるわけには行かない。

考えるべきことは、この虚無の地平にあってもなお、
如何に生きるべきかを探し求めることであるはずだ。

  しかし、具体的で明快な答を見出すことはできない。
それさえあれば、人生が意味を持って輝くのだという起死回生の行為、
そんな魔法の薬はこの世に存在してはいないのだろう。

  ただ僕は今、肥大化した自尊心の齎す
虚栄心に欺かれることをできうる限り避けて、
自分の心の奥底からの声に忠実にあらねばならぬと思っている。

V・E・フランクルの言う、
人生の側からその時その時に呼び掛けて来る
具体的な義務と責任を一つ一つ誠実に果たさねばならぬのだろうと、
考えている。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

Mae Hisanori ALLRIGHTS RESERVED.
Powered by eND(LLC)