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読み、記し、 繰り返して来たこと


  毎日毎晩、折に触れて思い出し、頭の中で繰り返し巡らせる言葉がある。


  僕は若い頃から本を読むときには傍らにノートを置いて、
これは重要だと胸に響いて来る言葉を書き写し、一冊を読み終えると、
ノートに記したそれらの言葉を読み返して記憶するよう自分自身に強い、
友人たちと話をするときには、記憶したそれらの言葉を話の中に挟むのが常だった。

今になってみれば、それは厭らしい自慢でもあり驕りでもあって、
赤面せずには思い出すこともできないのだが、しかし若い僕も若い友人たちも、
本によって打たれた言葉を披歴することはこの世のどんな出来事よりも重要なことだった。

君はこれを読んだか、知っているか・・・。


  如何に生きるべきかの確信を持つことができずに、
田んぼの浮草に自分の人生をなぞらえるを得なかった若い僕たちにとって、
本は何より重要な先生だった。

僕たちは何処から来て、どこに行くのか、僕の存在の意味は何なのか。
愛は僕たちの生きる意味を証明してくれるのか。
そんな命題を解くことのできない僕たちは、答を洋の東西の古典に求めるより仕方がなかった。

僕は本を読み、言葉をノートに記し、それを記憶することを自分の脳に強いた。
読書は、愉しみでも喜びでもなく、ただただ果たさねばならぬ義務だった。


  だが還暦を過ぎてからは、もうそのような義務を果たす必要はなかろうと
考えるようになってきたのだが、習わしというのは怖ろしいもので、気がつくと、
傍らに白紙を置き、手にはペンを持ってページを繰る自分に気づくのである。


  今晩も深夜を過ぎて、何十年振りかで唐木順三の『日本人の心の歴史』を読んでいると、
若い頃に書き写し、記憶しようと何度も口に出して繰り返した言葉が蘇って来た。


  もちろん、そんな言葉は僕以外の誰にとってもどうでも好いことである。
僕が何を思い考えて、何に惹きつけられて来たかなどというのは、
どうでも好い無価値なことに違いない。
そう、確かに違いないが、記してみることにする。


  花をのみ待つらむ人に山里の草間の春を見せばや(家持)

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(定家)

心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕暮れ(西行)

大地雪漫々(道元)

さみしさの底抜けてふる霙かな(丈草)

銀椀裏に雪を積む(世阿弥)

行く川の流れは絶えずして・・・(長明)

乾坤の變は風雅の種なり(芭蕉)

造化に従い造化にかへれとなり(芭蕉)

則天去私(漱石)

功利の念をもって世の中を見候はば 尊きもの無之候(鴎外)


  しかし、どれだけ記そうとも、限りがないものである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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