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「何ものかになる」 ということ(二)

  今夜もまた眠れなくて、テレビのスイッチを入れると、NHKが北大路魯山人を紹介する
番組を放映していた。
そのテーマは確か、「既成の価値を破る」とかいうものだった。


  幼い頃に父親を亡くし、母親一人に育てられることになったが、
母親も持てあましてしまって彼を里子に出すが、その養家でも恵まれた日々という訳には
いかず、彼は養父母に受け容れられ喜ばれることを願って料理を工夫したと、
番組は伝えていた。
両親の愛に包まれず、まっとうな教育も施されないマイナスの人生だったと。
しかしそのようなマイナスの宿命を負わされた故に、
彼は破天荒な性格を身につけることになり、
自分自身を強烈に貫き通して既成の価値を打ち破ることができた。
天才というのは既成の価値に囚われないで己を貫くところにある。
簡単に纏めれば、それが番組の趣旨だったと思われる。


  その番組を進めるのは、NHKのアナウンサーと研究者と芸能タレントに加え、
既成の概念を打ち破って様々な企業を蘇らせた経営コンサルタントで、
番組はそのコンサルタントの実績を紹介しつつ研究者の魯山人の秘められた逸話を挟んで、
魯山人の料理や陶芸作品など、既成の価値や概念に囚われない新たな創造の数々を
披歴してくれた。


  確かに、魯山人は破天荒で、既成の概念や価値を打ち破って、料理界や陶芸界や骨董界
に新たな価値を齎したのだろう。
彼の生きた時代にあっては、彼の経営する料亭の会員にならなければ、
日本の名士にはなれないとまで言われ、多くの「偉い人」がそこに通い、
多くのお金を投資したということだし、現代に至ってもなおその名声は天下に轟き、
その陶芸作品は小さな皿でさえ百万円を超える価値を保持し、
日本ばかりでなく欧米の美術館に所蔵されているということだ。


  確かに、魯山人は時代を画する天才と呼ばれるに値する人だったのだろう。
番組が伝える称賛の主張に僕は頷くばかりで、何の異議も唱えるつもりもないばかりか、
僕がもし三十歳くらいの若者であったなら、このような魯山人の卓越性に憧れて、
自分もこのように強く生きねばならないと胸を熱くしていただろうと思われた。
魯山人のように破天荒に生き、既成の価値を打ち壊して時代を画する新たな価値を
創造するような生き方をせねばならぬと願っただろうと思われた。


  しかし、その夜の僕は自分自身でも意外なことに、それとはまったく反対の思いに
包まれている自分に気づかされたのだった。その思いを一言で言うなら、
「このような人物になりたいとは決して思わない」という硬い感想だった。


  僕は今、魯山人の築いた業績を否定しているのではない。魯山人は魯山人で、
苦境の中、自らに与えられた人生を受け容れ、学び堪え己を磨き限界を尽くして励んだのだろう。
軟弱な僕にはとてもそんな事を成し遂げることはできはしない。
魯山人の残した足跡は本当に立派なことだと、僕は頭を下げるばかりである。
だがしかし僕は、魯山人のようになりたいとは、決して思えなかった。
これは自分自身でも意外なことと言わざるを得ないが、何が意外だったのか。


  僕は若い頃から今に至るまでずっと、自分を貫き通して既成の価値を打ち壊し、
美しい作品を残して来た人物に憧れを抱き続けて来たからだ。
そのような断固たる人生を歩む人間にならねばならないと、自分自身に強いて来たからだ。


  だが今回は、そうは思えなかった。誠に申し訳ないとは思うのだが、
僕は、魯山人のようにも、番組で称賛されていた経営コンサルタントにも芸能タレントにも
研究者にもなりたいとは思えなかった。「何故か?」、 僕は自分自身に問いを発した。
僕は考えた。
「では、僕はどのような人間になりたいと思い願っているのか」
と。


  この世で受け容れられること、称賛を得ることとは、昔から言われているように、
地位や名誉やお金や有名性を得ることと同義である。


  文化と言われるものも天才と呼ばれることも世紀の傑作と言われる作品も、
殆ど全ては時代が作り上げたものなのだ。極端な表現かも知れないが、
時代の権力者、時代の支配者が良しと定めるものだけがそのような価値を与えられるのであり、
人々はただそれに従って昂奮しているだけのことである。


  僕は凡人だ。
魯山人のような破天荒な性格も才能も持ち合わせてはいないただの助平なおっさんでしかないし、
どんなに睡眠時間を削り骨身をすり減らして作品をつくりだしても、世に認められ称賛され、
価値を与えられることは決してありはしないだろう。
その現実は僕にとって身を切られるほどに残酷で悲しく侘しく惨めなものであり、
このように書いていること自体が、僕に才能がない故に僻んで拗ねているのかも知れないばかりか、
真の信仰心を持っている訳でもないが、しかしそれでも僕は、「世に欺かれてはならない」、
「世に阿ねてはならない」、「世のものとなってはならない」という、
その言葉を信じたいと願っていることだけは、恐らく真実なのだろう。
「本当に心の底から願っていること」を認識することさえ為し難いと思いつつ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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