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「自己実現の夢はすべて潰える」

 自己実現の夢はすべて潰える。
企ても望みも、希望も夢も憧れも、命を懸けた切実な願いもすべては叶わない。
 
 営々とした日々の努力も、善良で誠実な思いも報われはしない。
ひとは決して誰も血の滴る心の底からの願いを理解してはくれないし、
命を懸けて求めてもくれず、褒め称えてもくれない。
僕たちの存在は決して報われはしない。
 
 砂まじりの虚無の風が空っぽな心に吹き荒れて、

「美しいことも、尊いことも、愛もありはしない。すべては虚しい」

と、骨までを蝕む。「絶望」という思いばかりが呪文のように日々繰り返し胸に渦巻いて、
僕たちは何の望みも持つことができなくなって、自分自身の惨めな運命を呪いつつ、
何ものをも信じることができずに、

「死んでしまえ」

と、自分自身を裁く。
 
 僕が望んだこと、心の底から願い求めたことはすべて潰えてしまった。
僕の心に残っているのは、他者への軽蔑と憎しみ、
そして、何の価値も意味も未来もない自分自身への呪いだけだ。
 
 
 僕は二十歳の頃からずっとこんな思いの裡に今日までを生きて来た。
自分はカスだ、価値のない人間だと、自分自身を否定して生きて来た。
僕の存在も人生も虚しいだけだと。何ものにもなれない自分自身を呪って来た。

「死んでしまえ」

と、雪の河原に足を踏み込み、薬を呷り、包丁を振り回した。
 
 しかし、自分を殺そうとしてそんなことを何度繰り返してみても、僕は死ぬこともできず、
当然のことながら、いきいきと満たされた自分を生きることもできなかった。
今日もまたおめおめと生きている自分自身が惨めで恨めしく、そんな自分を許せなかった。
呪わしさは更に増すばかりだった。
 
 僕は自分が何を求めているのかも、分からなくなってしまった。
意識はただただ虚無感に占められていた。
僕の存在には何の価値も意味もなく、誰も分かってはくれないという被害感に占められていた。
頑なに心を閉ざして、寒く冷たい氷の部屋に自分を押しこめて、僻んで拗ねていた。
 
 だが、恥を忍んで正直に言うなら、その絶望の只中で

「死んでしまえ」

と自分自身を呪いつつも、僕の胸に

「死ぬほど抱きしめてほしい」

という思いが突き上がって来て僕を焦がし、それが故にこそ一層僕は被害感と虚無に囚われて頑なになり、
自分自身への呪いを深めていたのだった。人生には美しいことも尊いことも善なることも何もないのだ。
誰も分かってくれず、この孤独の淵から救い出してはくれないのだ。
僕の存在には何の価値もなく無意味で、僕の人生はこの絶望という宿命に支配されていて、
それはこれからも決して変わることはないのだと、僕は自分自身の思いを実現できぬことで、
僻んで拗ねて自分自身を憐れんでいたのだ。
 
 
 情けないことに、六十五歳になるこの歳までの僕の人生を振り返ってみる時、
僕の生きてきた在り様はこのような虚無感に囚われて来たのだと言えるのかも知れない。
誇りと屈辱と被害感と自虐。そして、それ故に齎された虚無と絶望。
誠に情けなく、遣り切れない、惨めで悲しい現実である。
 
 だが、この僕の人生の現実は、ただ僕一人のものではなく、神なき現代という時代を生きている
多くの人々の心を苦しめている最も重要な問題なのではないかとも、僕は考えている。
「虚無」こそが現代の僕たちにとって最も重要な問題であり、
これを乗り越えない限り、僕たちは人間として本当に生きることも、
また死ぬこともできないのではないかと考えている。
 
 
 そしてそれを生み出す根は、「自我の欲望」「肥大化し偏流した自尊心」にあるのだろうと考えている。
 
 何故、「肥大化した」と僕は考えるのか?

 このような「虚無感」に心を覆われて、他者を軽蔑し憎んだり、自分自身を裁き否定し、
呪ったりすること、そんな苦しみに心を焼かれることがあっていい筈がないと思うからだ。
ここには必ず欺きが潜んでいると考えるからだ。
 
 何故ならば、生命のすべてはより高く、より広く、より深く生きたいと求め願っているからだ。
今現在の自分自身を乗り越えて、より意味ある存在でありたいと願い求めているからだ。
僕たち人間は、生命は、自分自身を生き、愛するように、
そして自分自身を愛するように人を愛するように作られているからだ。
 
 自分自身を裁き、否定し、呪っていること、
それが虚無をもって僕たちを苦しめるという事実自体が、そのことを証明している。
僕たちの存在の最も深いところにある生命の意志は「虚無」も「苦しみ」も求めてはいない。
 
 
 僕自身がこのような虚無感に四十数年間も囚えられて、
逃れることができなかったのだから、偉そうに言えることではないが、

「すべては虚しい」

「自分自身には何の価値も意味もない」

と、虚無感と被害者意識に支配されて自分自身を裁き呪い、理解されない自分を憐れんで、
他者も自分もすべてを軽蔑し憎み苦しんでいる人を見ることは、我が身を切られるように、
悲しくて遣り切れないからだ。そんなことがあってはならないからだ。
 
 僕たちは自分自身の存在に意味を求めている。
自分自身の存在には価値があって、大切なものだと確信したいと
心の最も深いところから求め願っている。
 
 だのに僕たちが被害者意識から産み出された虚無感に欺かれて
自己憐憫や軽蔑や憎悪や呪いや、道徳的マゾイズムに囚われて
頑なにそこから逃れ出ることを拒んでいるのは、
自分自身を過剰に重要だと錯覚しているのである。
 
 過去に、骨を切られるほどに傷つけられたのかもしれない、
死ぬほど信じていた人に裏切られたのかもしれない、光り輝いていたのかもしれない。
劣等生たる自分を罵られ否定されて来たからかもしれない。
 
 だが、過去がどのようなものであろうとも、僕たちはその過去の経験の故に今、
こうして生きている。過去は厳として今の自分自身を形づくっている。
僕たちの現実は、

「これ以外では決してあり得なかった」

現実である。それが惨めであろうが、価値なきものとしか思えなかろうが、
僕たちはそれを受け容れるしか、真に自分自身として生きることはできないのである。
赤ん坊の素直さをもって、誠実に、真面目に自分が本当に求め願っていることに従わねばならない。
肥大化した自尊心に欺かれている限り、僕たちは愛から最も離れた氷の部屋に蹲って、
自分自身を呪うしか道はないのである。
そしてそれは、皮肉なことに、自分自身が心の奥底から求め願っていることから
最も遠いところに自分自身を連れて行くことなのである。
自己実現の求めている価値とは、自分自身の存在の真の意味ではないのである。
 
 確かに、僕たちは根源的軽薄を逃れることはできない。
いつも愚かで、傲慢で、己を誇る。自分を認めない他者を軽蔑し、
そうする自分自身を否定したり、認められない自己を憐れんだりする。
虚無に苦しむ自分をマゾイスチックに慰められたりする。
だが、それでもなお、僕たちは求めなければならない。
自分自身の心の奥底からの呼び掛けに素直に従わなければならない。
自分自身を乗り越えて、自分にその時その時に与えられる人生からの義務と責任を果たさねばならない。
僕たちはそうしてのみ、本当に生きることができるのだし、
そこにだけ存在の意味が見出せるのだろう。
「自己実現」という罠、「自己の存在の価値」という欺きに惑わされてはならないと思うのだ。
人間には、「死と蘇り」があるのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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