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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(五)」

 
「そんなものは、男でも女でも、恋人を宛がって、セックスして、結婚でも決まれば、
即座に解消するんですよ。
でも、それは飽くまでも相手が自分の求める条件にかなっていたらのことですけどね。
何しろプライドだけは高いのですから」

と、まだ年若い友人に言われた。
それは僕がこれまでに思いつくことさえできなかった認識だった。
 
 彼女がそう言ったのは、僕が、生きる意味を見出せずに鬱病に陥って苦しんでいる人や、
自分の手首を切り続けて自分自身を呪うことから逃れられないでいる人や、
薬を大量に呷ってもがき続けている人や、
親にも兄弟にも誰にも愛されないと己の宿命を呪って死なねばならないと訴える人や、
私の人生なんかどうだっていいじゃんと嘯く人や、
自分のように醜い人間は生きていることが許されないのだと長年自分自身を切り刻んで
悲しみのうちに泣き暮らしている人や・・・
現代に生きる僕たちが自分自身の存在の価値も意味も見出せずに虚無のうちに閉じ籠って
如何に苦しんでいるかを話した時のことである。
  
 
「本人は確かに死ぬほど苦しいのでしょうけど、でもそれは、ただプライドが高過ぎるから、
現実の自分が認められない輝かない、報われないと嘆いているだけのことで、
それは丁度五歳の子供が自分の欲求を叶えてもらえないと僻んで拗ねて、
可哀想な自分を憐れんでいるのと同じなのだと思えるのです。申し訳ないのですが。
ですから、彼らが苦しいのは否定はしませんけれど、
でも、ドストエフスキーや芥川や漱石の描いた絶望とは、次元が違うのではないかと思えるのです」。
 
若い友人は続けた。彼女はニヒリスチックに吐き捨てるように言っているのではなかった。

人間なんて所詮は自分だけが可愛いのだからなどという浅薄なこの世の常識を言っているのではないと思えた。
彼女は真面目だった。心底腹が立っているようにも見えた。
 
 
 僕は、以前に或る若い女性から言われた決定的な言葉を思い出した。

「館長は甘いんですよ。理想ばっかり言って、人間のことなんか何も分かってはいない。
人間は汚いんです。所詮、自分だけが可愛いんですよ」。
 
 もちろん、若い友人はそんな浅はかな常識を言っているのではなく、真面目に誠実に
自分の考えを僕に話してくれているのであって、僕をおめでたいと揶揄するようなものではなかった。
 
 しかし僕はそんな彼女の言葉に心の底から驚き、そんなことはとても信じられないと、
その言葉を拒んだが、しかし、真面目に誠実に改めてそう言われてみると、
僕は彼女の言っていることこそが僕たちの本当の現実なのかも知れないと思えて来た。そして、

「女は、したたかなのですから」

と、彼女が付け加えた言葉は更に僕を打ちのめすに十分だった。
 
 
 僕には、女性がしたたかなのかどうかはまったく分からないし、
死にたいと、虚無と憎しみのうちに蹲り続けている知人たちの絶望が浅いのか
或いは深いのかも分からないが、しかし彼女の言は誠に誠に悲しく、遣り切れなくて、
僕の方が死にたくなるほどに打ちのめされてしまったことは確かだった。

かすかな灯火が目の前で吹き消されて、真っ暗な闇に放り出されてしまったような思いだった。
 
 彼女の言うことが真実なのなら、僕がこれまで四十数年間も願い求めて足掻いて来たことは、
一体何だったのだろう。

「愛」こそが人を本当に生かす。

頑なに自分に拘る己を離れて、素直に謙虚に自分自身を見つめて、
自分自身を支え愛してくれている者からの呼び掛けに気づきさえすれば、
人は虚無を乗り越えて蘇り、本当の自分自身を生きることができる。

被害者意識の齎す虚無を乗り越えて、本来の歓喜と感謝に充たされる筈だと尋ね求めて来たことは
一体何だったのだろう。
僕は単に甘ったるく浅薄な理想を掲げて、本当の現実を見抜くことができない軽薄児に過ぎないのだ。
 
 だが、僕たちの生きるこの現代の現実は、彼女の語るとおりなのだろう。
過剰な自己愛、肥大化した自尊心、歪んで偏流するプライドをもって、
自分自身以外には何も見えなくなっている人々。

愛を知らず、虚無の裡に閉じ籠って、そこを出ることすら拒んでいる人々。
それは紛れもない現実なのだろうと、僕は認めざるを得なかった。
 
 
 フランクルは現代における最も重大な問題は「虚無」であると言った。
 
 何十年にもわたって数え切れないほどの人々と交わり、毎日のニュースに接し、
甘いとは言え様々な経験を積んで来て、
僕はフランクルのその言葉以上に確かなものはないといよいよ強く考えるようになった。
 
 鬱病と診断されないとしても、また自殺を試みることはないにしても、
或いは人を刺し殺す衝動に突き動かされることはないとしても、
現代に生きる僕たちは誰もが、認められず求められず、報われず輝かず愛されないという
屈辱に身を焦がし、被害者意識に捉えられて、自分を認めない他者を憎み、
そしてまた或いは、認められない自分の存在には何の価値も意味もないのだと
自分自身を裁いて否定し呪っている。

どうせこの世には美しいことも尊いことも善なるものも愛もないのだと、
不幸な自分を憐れんで蹲り続けている。すべては虚しいのだ。
所詮人間は醜く汚くて、自分だけが可愛いだけなのだと。
 
 そして或いはまた、俺は中々の者なのだと内省を知らない自惚れ屋は自分を誇って
正義を振り回している。両者を共に支配しているのは、「虚無」である。
その過剰で歪んだ自己愛故に、ひとは自分自身しか見えない。
それがどれほど愛から遠く離れた「精神の死」に瀕していることなのか、気づくことができない。
まるで苦行僧のように。
 
 
 何とも言いようもなく、悲しき現実である。
己に充ちて、浅薄で、愚かに過ぎる僕たちの現実である。
過剰な肥大化した自尊心に囚えられている故に、素直に謙虚に自分自身の心の
最も深いところに潜んでいる希求に眼を向けることができなくなってしまった僕たち。

「この世で認められること」、

その所詮は相対的でしかない承認を得ることだけが自分の存在を意味あるものにして
幸福にしてくれるのだと欺かれて、その挙句につまずいて、他者を憎み、自分を呪い、
頑なに自分自身に執着するだけで、決して自分を乗り越えようとはしない僕たちの現実。

感謝も謝罪もできない現実。
 
 頭の中に置いた何の根拠もない過剰に高められた自己像を現実の自分に添って引き下げることも、
また高められた自己像に至ろうと努力をすることもせずに、
ただただ他人を憎み自分を傷つけ呪って涙に暮れている僕たちの現実。
自惚れ誇ってひねくれ捻じ曲がった僕たちの現実。
 
 
 「人間なんて、所詮は自分が可愛いだけなのだ」・・・。

それは確かに揺るがすことのできない恐るべき真実なのだろう。
否定することなど決してできない厳粛な現実なのだろう。

しかし、僕たち人間は本当に、そのようなものでしかないのだろうか? 
僕たちは虚無に覆われた「魂の不感症」「精神の死」から蘇ることはできないのだろうか? 
美しく尊いもの、それは本当に僕たちの裡にないのだろうか? 
僕たちの存在には本当に意味がないのだろうか? 
「畏れ」をドブに捨ててしまった僕たちには。
 
 
 僕は今、祈るだけだ。
神さまを未だ信じることのできない僕は、「せめて」と、天を仰いで祈るだけだ。
 
 僕は確かに己に充ちた軽薄で甘ったるく蛆虫にも値しないただの助平なおっさんでしかないと
認めざるを得ない存在だが、しかしそれでもなお、天を仰いで許しを乞うて、祈っている。
 
 僕の祈りなど誰の役にも立たないに違いなく、誰一人として喜んでくれることはない、
報われはしないと思いつつも、しかしそれでも僕は祈っている。
時代の子たる僕たちを欺き覆うこの虚無をどうか乗り越えさせて下さいと。
 
「尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬことさえもできないのだ」。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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