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「過剰な自己愛」

 もう四十数年前になる。新聞で知ったのだと思う。
アメリカで起きた身の毛もよだつ信じられない事件が報じられた。
即ちそれは、「学校に登校する小学生たちの列に、アパートの窓から銃を乱射して
多くの子供たちが殺された」というニュースである。

犯人はすぐに捉えられたということであったが、その後に続く記事を読んで、僕は我が目を疑った。
訳が分からなかった。

犯人は、動機を訊かれて、「月曜日は憂鬱だから」と答えたというのである。

これはカミュの小説『異邦人』の主人公が見も知らぬアラブ人を殺した動機、
「太陽がまぶしかったから」と全く同じものである。
 
 僕は非常な衝撃を受けて、その後幾夜も心臓が萎えてしまうのではないかと思えるくらいに
怯えさせられた。怖ろしさに、震えた。

小説ではないのだ。
人間が何故、憂欝だという理由で何の罪もない無関係な子供たちを殺すことが出来るのか。
何故そのような残虐極まりないことを思いつくことが出来るのか、
そうすることで犯人は一体何を得ようと考えたのか、そもそも考えなど何もなかったのか。

僕には何の見当もつかなかった。
底の見えぬ深い深い闇に突き落とされるような思いだった。
そして僕はその時どういう訳か、
「これから二十年後には日本でも同じような事件が起こり始めるに違いない」と思った。
必ず、そうなると。
 
 何故社会学や心理学の知識もない二十歳そこそこの僕がそのように考えたのか、
今でもはっきりとは分からないのだが、恐らくその頃僕がドストエフスキーの小説に読み耽っていて、
『罪と罰』のラスコーリニコフや『悪霊』のスタブロギン、『未成年』のアルカルジーなど、
悪魔に魂を売り渡してしまったとしか言いようのない虚無の恐ろしさに圧倒されていたせいだろう。

彼らは何ものをも信じず、誰をも尊ばず、誰をも畏れず感謝しない。
彼らの心は凍りついてしまっていて、彼らには愛はもちろん、
同情心も憐憫も反省も後悔も優しさも思い遣りもありはしない。

他者の心が彼らの心を震わせたり揺らしたり打ったりすることは決してない。
彼らの心はまさしく死んでいる。

「人間精神の死」。

彼らにあるのは、偉大な自分を認めない人々への軽蔑と憎しみと、そして屈辱だけである。

自分は頂点に立って人々から認められ称賛されるべき存在なのだと彼らは言う。

俺は自由で、何ものからも独立した存在である。
神がいないのだから、俺は何ものからも束縛されることも義務を負うこともない。

「何だって俺が人を愛さなければならないのだ」と。

「俺が望むなら、すべては許されている」と。
 
 
 僕とて、殆どの日本人と同じように深い信仰心を持っている訳でも、
日々の生活を神の基準に照らして生きている訳でもないが、
ドストエフスキーがこれでもかこれでもかと見せつけて来るこれら虚無主義者たちの心情を
僕は自分の精神の一部としても、受け入れることはできなかった。
ページを繰りつつ僕は怖ろしくて、信じられなくて、吐き気すら覚えた。
 
 しかし、この何ものをも尊ぶことのできない虚無主義が
これからの僕たちが生きる現代を覆っていくのだということは
何故か確信して疑うことが出来なかった。

僕たちはみんなこのような、自分自身以外には何ものをも信じることのできない
精神の持ち主となって行って、そしてその人々の心の傾向を象徴するように
無差別殺人が頻発するようになるのだと確信した。

漱石の言う「己に充ちた時代」。「終わりの日」。

『聖書』と書くと、誰もがそんなことは聞きたくもないと拒むが、
『聖書』にはこんな記述がある。

「対処しにくい終わりの日が来ます。と言うのは、人々は自分を愛する者、金を愛する者、
自惚れるもの、傲慢な者、冒涜する者、親に不従順な者、感謝しない者、忠節でない者、
自然の情愛を持たない者、容易に合意しない者、中傷する者、自制心のない者、粗暴な者、
善良さを愛さない者、裏切る者、片意地な者、誇りの為に思いあがる者、
神を愛するより快楽を愛する者になるからです」。
 
 
 1850年に出版されたニーチェの『ツァラツストラ斯く語りき』の

「神は死んだ。その座を受け継ぐのは人間である」

との宣言、それを受けて近代は、

「人間は自由で平等で独立した存在だ、
人間は何ものからも束縛されずに自由に生きることが出来る」

との人権を高らかに謳い上げて来た。
人間が頂点に立ったのだという人権の獲得、勝利の宣言である。
人間は真に解放されたのだと言う。

そしてその権利を獲得して人間は自分の人生を自分で企て、
それを実現することで自分の存在と人生に真の意味を見出すのだと、
興奮に酔って現代を迎えた。

自分が望むなら、すべては許されている。
何ものも俺を縛ることはできない。

それらドストエフスキーが産み出したニヒリストたちの精神、
それが現代の僕たちを水苔のように覆っている。
 
 四十数年前のアメリカの事件は、その時代のスタートであったかのようである。
それ以後今日まで、アメリカではもちろん、日本でもおぞましい無差別殺人事件が
頻発するようになった。
 
 無差別殺人を犯す犯人の心理、ニヒリズム。
僕たちはそれをそれら犯人たちに固有の異常な心理であると考えてしまうが、
しかし実はそうではないと僕には思われる。

ドストエフスキーは「時代は時代の子を産む」と言ったが、
そう、時代の精神は若者たちにまずは入り込み、
そしてそれはゆっくりと上の世代にも下の世代にも浸透して行くのである。
 
 冷徹に毎日報じられるニュースを見つめるなら、僕たちは容易にそのことに気づく筈だ。
無差別殺人と同じように、これまで聞いたこともない新しい言葉、
つまり新たな事件や事象が僕たちの生きる現実の世界で起き続けているのだ。

鬱病が異常な勢いで増え、幼児虐待やDVや極度ないじめや引きこもりやリストカットや
モンスターペアレントや自殺者など、それらは増加の一途をたどって、
留まることを知らない。

人々は理解できない新しい事件や事実に最初は驚き嘆いて、様々な手段も講じられてはいるが、
僕たちが直面しているのはそれらが減少することなく益々増加するという悲惨な現実である。

一体何が人間性の獲得・勝利なのか? 
何ものにも縛られることなく自由で独立した僕たちは何ものをも信じられなくなって
己に充ち、ニヒリズムに支配されて、「精神の不感症」を患っている。
時代は確実に時代の子を生み出しているのではないだろうか?
 
 
「私の存在には何の価値も意味もない」と嘆く人に出会う。

「誰にも認められず、求められず愛されない自分には何の意味もない」と、
泣き暮れている人に出会う。

「こんな私は死ぬべきなのだ」と、自分自身の身体をカッターで切りつけている人に出会う。

「本当の俺を誰も分からない」と怒りに震えて自分を理解しない人々を罵る人に出会う。

「こんな職場は本当の俺がいる場所ではない」と上司や同僚を罵って怒る人に出会う。

明日は全国共通の試験だから、お前は休めと言われて、
日頃から三十点以上を取れない中学生は自分は自分の内に引きこもる。
 
彼らは一様に「本当の自分」が認められないと嘆くのだ。
彼らはそれ故に被害者意識に捉えられて、自分を認めない人々を憎み、
同時にそんな自分は虚しい、生きることが許されないと自分自身を裁き否定している。

誰にも分って貰えない認められないと、心を頑なに閉ざして
不幸な宿命に定められて苦しむ自分を憐れんで閉じ籠る。

セックスの快楽や自身の身体を傷つける被虐の苦しみに
可哀想な自分の存在の意味を見出そうとして呻いている。

彼らは何も信じない。

何も聞かない。

感謝することも喜ぶことも自分の現実を受け容れることもしようとはせずに、
そしてまた、頭の中にある崇高な本当の自分に至るよう努力を重ねることもせずに、
ただただ自分が望むとおりに認められない自分を呪って、
マゾイズムの倒錯した麻痺の中に蹲るだけである。

頭の中に作り上げた崇高な「本当の自分」が何処にもないと僻んで拗ねて、
頑なに心を閉ざすだけである。

夢も希望も憧れも理想も彼らの心を燃やすことはない。
今の自分を乗り越えて自分を高みに至らせようと努力することはしない。
認められないこと、本当の自分が実現されない故に、彼らは嘆き悲しんで虚無に苦しむ。

自分の存在には何の意味もない。

「お前らに分かって堪るか」と。

実は、彼らが愛し執着しているのは、
生きることが許されないと否定し呪っている筈の自分自身だけなのだ。

頑なに自分の不幸に閉じ籠る彼らは決して人を愛そうとはしない。
自分に向けられた他者からの思いやりや愛に目を向けようとはしない。
彼らは自分の不遇を呪って、自分はこんな不幸な宿命の元に生まれついたのだと主張するが、
しかしそのありもしない宿命に縛り付けているのは、自分自身以外の何ものでもないのだ。

何故なら、神はいないのだから。
 
 過剰な自己愛で自尊心を肥大化させて、自分の頭の中の「本当の自分像」を遥か高みに置いて、
それが現実に実現しない、虚しい、意味がないと身をよじって苦しむ虚無主義者たち。

しかし彼らが為すべき唯一のことは、
不当に高められた頭の中の自己像を現実の等身大の自己像に引き下ろすか、
それとも、高きに至るために努力を重ねることしかないのである。

素直に謙虚に自分自身を見つめて、
これ以外では決してあり得なかった自分の現実を受け容れることしかないのである。
 
 僕たちの心の最も深いところにある「生命の意志」は、
今の自分自身を乗り越えて更なる高みへと至れと僕たちを促している。
それこそが僕たち生きるものの目的であり、
それに至らんと努力することこそが僕たちの存在の本当の意味なのだと衝き動かしている。

しかし、肝心なのは、「高み」とは決してこの世で自己を実現することではなく、
素直で謙虚な「愛」だということである。

神を殺してドブに投げ捨てて己をその座につけてしまった僕たちにとって、
素直に謙虚に愛を身につけようとすることは最も困難な困難さである。

しかし、それ以外に道はないのだと思われる。
僕たちは躓き、倒れ、破られ傷つくに違いないが、それでも、そう望むことはできる。
人間には、死と蘇りがある筈なのである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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