義母
今は亡き義母はまだ六十歳という若さでALSという病に冒された。
事の始まりは、右手の指先が動かなくなったことだった。
当人も義父も僕たち家族もALSという病気を知る筈もなく、
「単なる疲れだろう。歳を取ったのだから支障も出るさ」
などと楽観していたのだが、
やがて麻痺は右腕全体に及び、更には左手にまで進行して行った。
義母はそれでも俎板に釘を打ちつけるやら
掃除機に大きな取手を付けるやら様々な工夫を凝らして、
儘ならぬ左手で包丁を使い、洗濯をし、掃除もこなして、
義父や娘たる妻に家事の面倒を掛けるということがなかった。
そして笑って言うのである。
「左手だけでも結構なものだね、何でもできる」。
しかし人づてに聞いた幾つかの病院や整骨院に通い続けても、
麻痺は留まることなく進行して、足から顔までをも冒して行った。
義母は家事をこなすことも字を書くことももちろん、
遂には立つことさえもできなくなって行った。
「大変ですね」
と、友人たちが寝たきりになった義母を見舞って言うと、義母は、
「まだ口が動くから、大丈夫」
と、真顔で答えて、
「有り難いことだと、本当に思うの。
喋りばちの私には口が一番大切なんだから」
と、満面の笑みを頬に浮かべるのだった。
しかし、その口もやがては動かなくなってしまった。
娘たる妻は、あいうえおが書かれた大きなボードを義母の眼前に示して、
辛うじて動く瞼の瞬きによってその意志を読み取っていた。
義母は石のように固くなってしまった体をベッドに据えられて、
妻が指さすボードの文字を一つひとつ瞬きで伝える。
「あ、り、が、と、う、か、ん、し、や、で、す・・・」