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存在の無意味感・虚無感

ここ数年間というもの
僕が書いてきたエッセイは
同じ内容をただただ繰り返しているだけと言える。
一言で言うなら、
「骨までをも蝕む『自分の存在の無意味感・虚無感』を
どう乗り越えるのか?」
ということだと言えるだろう。
 

僕は何故こんなにもしつこく同じことを書き続けているのか、
自分自身でも呆れ果てるしかないのだが、
しかし、その答は極めて明快である。

それは、僕の身近に感じている人の多くが
この「存在の無意味感・虚無感」に苦しめられていて、
どうにかやっと生きているという状況にあるからであり、
また、僕自身が二十歳の頃からこんな年寄りになるまで
この問に苦しめられて来たからだし、
それより何より、
僕たちは素直に謙虚に己を深く内省するなら
必ずそれを乗り越えることができる筈だと思えるからだ。

僕は、身近な人が大切だし、
その人たちが苦しんでいる姿が愛しくて、
胸を痛烈に射抜いてくるからだし、
僕自身がその苦しみから逃れて、
自分自身を正しく愛したいからだ。
自分自身の存在を無意味と感じて苦しみ、
世の人々も自分自身も軽蔑し憎んで
何者をも信じられなくなっていることは
間違っていると思うからだ。

安直に軽薄に希望の光があると言うのではない。
いつ如何なる時に如何なる状況にあろうとも
感謝できる筈だとも言うのでもない。
存在の無意味感・虚無感は
僕たちの存在の根源に巣食うものだからである。
真摯に素直に謙虚に
自分自身の心の最深奥を尋ねなければならないと
思うのだ。

そうするなら、必ず、
自分自身を認めたい、愛したい、大切にしたいと
必死に求めている自分に気づく筈だからだ。
認められたい、求められたい、愛されたいと
心が軋む声を自分自身の内に見出す筈だからだ。

自分自身を切り刻む赤ん坊はいない。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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