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「美」はどこにあるのか?

個展などで僕の絵を見た人からよくこんなことを言われる。
「前さんの周りにはいい草や木があって良いですね」
と。そんな問い掛けに僕はいつも、
「そうですね」
と、無難に答えるようにしているが、実は「何という考え違いをしているのだろう」と、
落胆と言うか失望と言うか、そんな苦々しい思いをしている。

絵を描く人は良い景色を求めてスケッチ旅行に出かけるとか、
良い題材をあちこち探し回るというのは一般によく言われていることなので、
僕の周りには良い題材が転がっているとひとが思うのは当然のことなのかも知れないが、
しかしそれは大いに間違っている。

これと同じような話を若い頃に聞いたことがある。

アメリカを代表する画家アンドリュー、ワイエスの絵が日本に初めて紹介されたときに、
日本の画家や評論家はその素晴らしさに驚いて、ワイエスの住む地を訪れたらしい。
ワイエスは自分の住む地の風景やその地の身近な人々を描いているので、
そこに行けば絵のように素晴らしい絶景が広がっていると考えたようだ。
ところが、日本からわざわざ出かけて行った人々の目に映ったのは、
アメリカのどこにでもあるような何の特徴も美しさもない平凡な風景だったというのだ。

僕は決して自分自身の絵をワイエスと同列に置いて言うのではないが、
ここには共通の考え違いがある。
つまり、極めて多くの人が「美」というものは
そこいらに「美として」存在しているもので、
画家はそれを描いているのだと固く信じているのだ。
この議論は極めて微妙で難しい。人々は言うだろう。
「美しいものや美しい風景がそこにあるので、それを描いているのでしょう?
何が間違っていると言うの?」
と。そう、確かにその通りである。
画家は目に映ったそこにあるものを描いているのだ。しかしながら、
間違えてはいけない。そこに「美」が「美として」あるのではないのだ。
美しい風景や美しい人や美しい草木は、美しいものとしてそこにあるのではない。
「美」とは、画家の眼による発見なのだ。画家が自らの全経験をもって美を見出す時、
初めてそこに美が生まれ出るのだ。

ワイエスの住む地の風景が取り分け美しいのでもなく、
僕の住む地の草木が優れて美しいのでもない。

小林秀雄ではないが、美しいという一般概念に囚われている限り、
「美」を見ることはできない。世の言う通り、評論家の言う通り、
またマスコミの言う通りにものを見ている限り、「美」は見えはしないのだ。
眼は、その人その人の全経験である。
人は、その経験相応の美を見るのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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