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邂逅(上)

高校三年生の春のことだった。
国語の先生がこんな話をして下さった。
 
 
「人はその生涯の中で、その人の前に立ったら畏(おそ)ろしくて
口も利けない三人の師に出会う。
もしこの先、そういう師に出会ったなら、決して離れてはならない。
踏まれようと蹴られようと、しがみついて、離れてはならない。
その師を超えるまでだ」。
 
 僕はその歳になるまで文学書はおろか、教科書すらもろくに読んだことがないばかりか、
小中学時代の日々の宿題もテスト勉強も高校受験の勉強も殆どしたことがなくて、
今になって振り返れば、いったい何故そんなに能天気でいられたのか
自分でも信じられないのだが、小中高生の日々をただただ遊び呆けて過ごしていた。

だから当然のことながら、自分自身の生き方についても、
将来どのようになりたいのかというようなことについても全く考えたことがなかった。
そのような僕に先生はこのように話を続けて下さった。
 
 
「お前はまだ人生如何に生きるべきかということも、
何を目的として生きているのかということも、考えたことがないだろう。
何も教えられずに育った猿のようなものだ。
だが、お前はこれから必ず自分の存在の意味とは何なのかと悩まされ、
苦しめられるようになるだろう。
人生の目的も指針も見つからない、僕の存在には何の価値も意味もないと、
嘆くようになるだろう。
 
 人は誰しも原始の森を歩いている。
鬱蒼と繁る樹々や羊歯に覆われて、昼でもなお暗い道なき道を歩いている。
地図も磁石もなくて、自分がどこから来たのかも何処に行くべきなのかも分からずに、
一人ぼっちで歩いている。
俺はその森でお前に出会った。
だから、お前が水を持っていなかったなら、水を遣ろう。
腹が減っているなら、握り飯も遣るし、足を怪我しているなら、肩も貸して遣ろう。
だがそれは暫しのことだ。お前はまた俺と別れて、一人でこの原始の森を歩いて行かねばならない。

 もしお前が俺と別れた後に、何も持たない若者に出会ったなら、
お前の持っているものを少し分けてやると好い」。
 
 
 人は原始の森で、決定的な人と出会う。
僕は先生のこの話をお聞きした時から今日までを、先生に頂いた水を飲み、
握り飯を食べて、躓いたり倒れたり怪我したりしながら恥多き人生をどうにか生きて来た。
このような歳になっても未だ確かな地図も磁石も持ち合わせてはいないが、
しかし漸くやっとこの暗い森の遥か前方に仄かな光が見えて来たような気がしている。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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