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邂逅(下)

前回、「人はその生涯の中で、その人の前に立ったら畏(おそ)ろしくて
口も利けない三人の師に出会う。そしてその出会いが人の人生の有り様を決定的にする」
と書いた。
 
 
 僕が高校三年生の春に出会った先生は正に、僕の人生の生き方を決定した師だった。
それまで自分自身を内省することなく能天気に生きていた僕は先生によって
初めて自分の人生を生き始めたと言えるだろう。

先生はただただ恐ろしくて、先生の前に立つ時僕は「はい」と言う以外に言葉を持ち得ず、
自分自身の思いや考えを口に出すことができなかった。

僕は先生が話して下さったことをつぶさにノートに記し、
先生が話して下さる本のリストを作って毎夜必死に読み耽り、
抜き書きのノートを作り、また考えたことを原稿用紙に書き綴り続けた。

しかし先生はそんなにも必死に本を読み漁って学んでいる僕を
「お前は馬鹿だ」「お前はこんなことも知らない」「思想がない」と、
変わらずに否定するばかりだった。
 
 だが僕にとって先生は神であり、僕はその前にあって虫けらでしかなかった。
だから何故先生は僕の努力を認めて下さらないのかと、
そんな屈辱の思いが頭に浮かぶことすらなかった。
僕は駄目なのだ、その想いが僕を激しく強いた。
僕は高校三年から四十歳になる頃まで先生のお宅を訪ね続けた。
そしてその度に「お前は馬鹿だ」と否定されて、褒められたことはただの一度もなかった。
僕は先生の万巻の書を読む知識と教養と深い思索に圧倒され憧れて、
「もっと激しく学ばねばならない」と、自分自身を脅迫し続けるのみだった。
 
 
 人から先生と呼ばれる人の仕事は後進にものごとを教えて伸ばすことであるから、
その果たすべき使命は何よりもまず生徒とか弟子の今の現実を否定することである。

君の今の程度はまだ低いと否定し、更なる上を指し示して、
そこに至れと教え促すのが仕事であり、そして弟子や生徒は、
先生の否定によって自分自身の足りなさを肝に銘じて、
先生のようにならむとして努力を積むのが本分である。

弟子や生徒の心の肝心は何よりも自分の至らなさを自覚して、
先生の教えを素直に受け容れる謙虚さであり、
また先生に対する憧れや畏れを持って望む尊敬の念である。

この二つがあるからこそ弟子や生徒の内に情熱や努力が生まれる。

故に弟子や生徒がどこまで自身を伸張させることができるかは
専らその謙虚さと先生に対する尊敬の念にかかっている。

その程度が高く強ければ、伸張の度合は高くなるし、
その程度が低く弱ければ、それに応じて低くなる。
 
 
 自由と平等と独立の精神が人々の心を支配するようになった昨今では
自我の意識が拡張して、上下という意識そのものが希薄になって、
先生という存在に対する憧れや尊敬も、
そしてまた自分は足りないという謙虚さも同時に失われて来ているので、
僕の言うようなことは殆ど顧みられることがないだろうとは思うものの、
尊敬の念と謙虚さを失うなら、
人は人に決定的に出会うことはできないのだがなあとも、嘆息したりしている。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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